能登半島地震で被災された方遅くなりましたがお見舞い申し上げます

東日本大震災から13年

あの日私は中学3年生で卒業式の日でした

みんなで泣きながらお別れしたのが今でも覚えています

私は、卒業式終わったらいわきにいるひいおばあちゃんの家に行く予定でした

そのため、妹は早退して家に帰っていました

しかし、お父さんの転勤が決まり、妹が後1年小学校に通わないと行けないとのことでマンションを借りられるかということでお昼ご飯を買いに行きながら妹とお母さんは出かけていきました

私とお父さんは二人の帰りを待ちながらテレビを見ていました

14:46 いきなりテレビから聞き慣れない音がしましたそれと同時に大きく揺れました

私はコタツの下に隠れました

多分5分くらい揺れたのかな?

その後、お父さんの同僚の方から外に避難しろって言われてスパッツを履いていない状態で外に出ました(スカートは履いてるよ)

お父さんの働いている職場が近かったこともありそこに避難しました

そこで宮城県沖で地震があったとか津波が来ていることを知りました

お父さんから借りた携帯からお母さんにかけようとしてもなかなか繋がらない

繋がったのは、それから30分後今から戻るって連絡ありました

無事なことが確認出来て良かったって思いました

それから連絡があった30分後 

お母さんと妹に再会できました

それからは揺れと寒さと戦いながら外にいました  

雪がチラチラ降ってきたの覚えています

夕方5時頃辺りが暗くなりお父さんの職場に避難しました

周りの人たちがおにぎりを握りに家に帰えると行って一旦家に帰りました

でも私たち子どもたちはここにいるっていってお父さんの職場にいました

その時に、小学校が倒壊する恐れあるから近づくことが出来ないと知りました

私が卒業した小学校であり妹も通っていた小学校でした

その時に浜通りとか宮城県、岩手県が酷い被害に遭われていることをテレビで知るようになるのであった

おにぎりを持って帰って来たお母さんたち

そのおにぎりが震災後初めて食べた食べ物でした

その時に私はお母さんにスパッツを持って来てもらいようやく寒くなくなりました

その後8時までお父さんの職場に避難していた私たち

家の中は安全だと確認されたため家に戻る私とお母さんとお父さん

(お父さんは👮‍♀で仕事で浜通りの浜辺で行方不明者を探しに震災から8年辺りまで毎月11日近くになると行っていました)

しかし妹は、アパートの子と一緒にいたいとのことだったので一晩お父さんの職場に避難することになりました

家に帰ったら本棚から飛び出した本を片付ける

私の家では食器とか割れていませんでした

本とかが落ちている程度でした

ガスも電気も使えました

なので電話も通じました

ひいばあちゃんに連絡して無事なことが確認できました(この時、栃木県からおばあちゃんも来ていて無事だと確認出来てます)

おばあちゃんからちょうど買い物に来ていて家に帰る途中だったみたいで津波が目の前まで迫っていたけど大丈夫だったと後から聞きました

後は…中学校の先生とも連絡が取れました

しかし水道だけが次の日に止まりました(だいたい1週間ぐらい)

この日はラジオを聞きながら寝ました

次の日、朝からテレビから流れて来る映像に驚きと辛さを感じたのは私だけではないと思います

お父さんの職場に避難している妹をお迎えに行き、近くのコンビニに食料を確保しようと思いましたが、ほどんど棚には何もありません

とりあえずあるものを買って食べていた気がします

後は、お米があったのでそれでおにぎりを食べていた気がします 

そして、学校について…小学校は崩壊のおそれがあり立ち入り禁止のためそのまま春休みに入りました

私は中学校を卒業していたのでそのまま春休みに入っていました

しかし…高校受験の合格発表が3月14日だったのが3月16日に延期になりました

3日目は水道が止まっていたので水を貰いに旧役場だったところまで行きました

その時に福島原子力発電所3号機が水蒸気爆発がしてお父さんから『ひいばあちゃん危ないから栃木県に避難させたほうが良い』とメールが入りました

栃木県にはおばあちゃんとおじいちゃんそしてお母さんの弟(私で言うと叔父さん)が住んでいます 

そのことをひいばあちゃん、おばあちゃんそしておじいちゃんに話しておじいちゃんが高速、一般道を使いながら叔父さんと一緒に5時間から6時間かけてお迎えに行き栃木県に向かいました

この時、ひいばあちゃん80代 おばあちゃん60代おじいちゃん60代後輩だった記憶があります

ひいばあちゃんは2019年11月3日に94歳で避難先の栃木県で亡くなっています

ひいばあちゃんは避難した後、お盆に何回かいわきに戻っていますが、避難先に慣れてしまったせいかいわきに行くと体調を崩してしまいぐらいで震災から3年ぐらいでいわきに戻れなくなりました(多分、5時間かかってしまって疲れてしまうからって言う理由みたいですが…)

さて、話を戻して…

4日目は車を使って少し離れた大きいスーパーまで買い出しにいきました30分ぐらい外で並びました中に入るとあるものないものが一目で分かりました必要な物を買って家に帰りました

4日目の3月14日は本来なら高校受験合格発表日であり、ひいじいちゃんの命日の日でもありました

この日に合格発表出来ていれば良かったのにって気持ちでいっぱいでした

5日目は合格発表の前日ということもあり家に大人しくいました

6日目私の高校受験合格発表の日でした

私にとっては最後の中学校制服を着る日になりました

お昼頃発表だったのでゆっくり歩いていきました(お父さんの異動がなければ家から近い高校でした)

高校に着いて合格発表の掲示板を見て自分の番号がありました 

震災があってから1番の喜びの瞬間でした

しかし、入学する高校は北校舎が地震の影響で立ち入り禁止だと言われました

合格証、入学の手続きが入った封筒をもらいそのまま中学校に向かいました

合格したのを担任の先生に伝えるために

でも途中で同級生に会い中学校まで行かなくっても大丈夫みたいよって言われたけど直接伝えたくって行くことにしました

中学校は天井のみ被害にあっているだけで無事でした

担任の先生にも会いました

これが中学校の担任の先生にあった最後の日でした(離任式が7月になってしまい高校の一学期終業式と重なってしまい行けなかったため)

その後は高校の準備で忙しかったです

その中で1日だけ小学校に行ける時がきました

しかし体育館の中のみ

学年ごとにクラスごとに倒壊する危険がある中先生方が校舎の中にある一人ひとりの私物を並べてくれた姿に勇気をもらえました

妹が学校に残していた物をもらって小学校にお別れを伝えました

その後小学校は新しい場所、校舎に移り壊されて今は特別支援学校として生まれ変わりました

でも新しい場所に通うのには震災の関係で不具合がありその年の12月まで全校児童通うことができませんでした

12月までどうやって通っていたのかというと…

4月からGWまでは1、2年生、3、4年生、5、6年生という形で場所分かれて通っていました

1、2年生は廃校になった小学校、3、4年生は私たちの学区ではない中学校の使っていない教室を5、6年生は私が通っていた中学校の使っていない教室を使って通っていました

GW明けには1、2年生、3、4年生は廃校になった小学校に通うようになっていました

しかし、妹は5月18日にお父さんの仕事の関係で転校しました(今思うとかなり中途半端…)


そして、私はというと

入りたかった高校に入学して一学期は学校には行ったり行かなかったりしてました(部活だけ行く日もあり午後のみんなが学校から帰る時間帯に電車に乗って学校に向う日もありました)

先生からも転校を進められたこともありましたがそれについては拒否しました

最初は、1学年のみ登校 GW明けから夏休みまでは2学年同時に登校(1、2年生が登校して3年生は学校休みって感じです)でした

夏休みに入る前に仮設校舎が出来て引っ越し作業をして夏休み明けの2学期からは全学年で登校が開始しました

北校舎が完成したのが私たちが高校3年生になった冬でした

噂では、仮設校舎しか知らない私たち高校3年生のために建設会社の人たちが頑張って作ってくれたと卒業式の時に聞きました

なのでちょうど今年で北校舎復旧してから丸10年を迎えたはずです

これが東日本大震災の時私が通って来た道です

このことを忘れずに生き続けたいと思います

文書長くなりましたが、読んで下さりありがとうございました


ここからは違う話になっていますが、高校生の時の話なので読んでくれると嬉しいです


私は高校2年生の冬から原因不明の精神的に不安定になっていました(まぁ原因は私が発達障害があってその2次障害だったということを大学2年か3年生の時に授業で知ったって感じです)

高校の時の担任の先生、部活の先生にはかなりご迷惑かけていました

授業中に突然教室を飛び出して授業をサボっていても私のことを気にかけてくれた担任の先生

どこに隠れていても空き時間の時は私のことを探してくれた担任の先生

悪いことをした時に叱ってくれる担任の先生

私が授業をサボっていることについて親には内緒にしてほしいって言って話さなかった担任の先生

部活に行きたいのになかなか行けずサボってしまう私のことをどうしたいのって心配をかけてしまった部活の先生、部活の仲間

私が木の枝とか金属のもので傷つけそうになった時に止めてくれた親友、担任の先生

こんなに悪いことをしているのに他の生徒と同じように接してくれた担任の先生

後、(これは精神的に不安定になる前のことだけど)公開文化祭の時にチラシ配りをしていてチャラ男ぽい人に絡まれそうになった時動けなくなった私に手を差し伸べてくれてなんか1人でいたから連れてきたってクラスメイトに戻してくれた担任の先生(実はあの時助けてくれたのに恥ずかしくって私、手を離そうとしたけど強く握り返して離さないようにしてくれたあの時の先生の温かい手のぬくもり今でも忘れてないです)

ちゃんと目を見て謝ってないんだよね

ちゃんと謝りたい

後、ちゃんとありがとうございましたって伝えたい

そして、今はちゃんと(やりたい仕事ではなかったけど)仕事頑張っていますって伝えたい(5年前に仕事場でいろいろあって辞めたい時はあったけど…)

でも、卒業してから10年間会っていません(部活の後輩の手伝いで一回だけ会ったけどちゃんと話せてないって感じです)

今は私が卒業した高校とは違う高校に行っているのでなかなか会えないし手紙を書けない辛さ

どこかで偶然会ってちゃんと謝りたい、話したい気持ちでいっぱいです

(担任の先生は女性の方です)


ここまで長々読んで下さりありがとうございました

また書きたい時に書きますね


なんとか日付変わる前に間に合って良かった(●´ω`●)