声を聴いて、否定しない。。 | ワタシ として。。

ワタシ として。。

ブログの説明を入力します。

心の声を聴く。。
今日も感じたことが。。

『なんか、冷蔵庫にあるヨーグルト、食べたいかな』
ふと、夕飯後に思った。。
でも、お腹減ってあれこれ、おかずやご飯は食べちゃった後だから、めちゃくちゃお腹に余裕があるわけじゃなかったけど、なんとなく ヨーグルト! と思った。
『食べようかな。』
冷蔵庫から出して手に取ったけど、そこに頭の判断が入る。
[夜はあんまり胃に負担かけないほうがいいじゃないか? 夕飯断食 がいい とも前に本を読んだこともあるし。ましてや、お腹そこそこな感じじゃない?血流悪くなるよ?いいの?やめたら?]
その頭の判断はもっともで、妙に説得力ある。やっぱり、ヨーグルトはやめにしよう!
そう考え直し、でも、なにか満たされず、代わりのものを探してみた。
たまたまあった、チョコ1個と、クッキー1個。それに変えてみようと、代わりに食べてみた。 。 でも、全然満たされない。。満足しない。
やっぱり、ヨーグルト食べるほうが良さそうだ。でも、今のお腹の状態だと、胃がもたれたりしないだろうか。そこまでの余裕あるか⁈ でも、やっぱり食べよう!と思い、再び冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、食べてみた。でも、先にチョコやクッキーを食べちゃったから、いつも美味しく感じるヨーグルトが酸っぱく感じた。(°_°)
でも、食べたことで満たされない感じはなくなった。

その後、『あーあ、食べちゃった。。ヨーグルト。あんなに胃に溜まるもの、食べてよかったのかな。血流大丈夫かなぁ』 なんて、心の声に従ったのに、従ったことに対してまたまた否定が入ってきた。。たぶん、頭の判断。

そんなことをやりすごしながら、食後の片付けをし、お風呂に入り、今、こうやって振り返っているけど、今の胃はどうか? と感じてみる。心配された 満腹感やもたれ感はない。ヨーグルト食べたかったな という後悔もない。案外、大丈夫なのかも。

頭の判断で常に考えてきたから、感覚がよくわからなくなっている。でも、心の声を信じてみようとしても、やっぱり頭が邪魔してくるし、心に従ったことを否定していることに気づいた。せっかく心の声を拾い上げたのに、それを満たしたことに否定してしまったら、心もきずつけてしまう。なんのために発してくれた声なのか、わからなくなる。
確かに、世の中や常識、世間的、医学的根拠では、タブーのものもいっぱいあるだろう。
でも、その 外野の声ばかりに左右されては、自分が自分として生きてきた意味、自分を生きている意味が否定されてしまう。
ときには、そんなタブーにとらわれずに、自分に問い、どうしたい? なにが嬉しい?
そっちの感覚を信じて叶えてあげることなのかなと思った。

あと、今回のことで気づいたことは、もう一つ。
自分をどんなとこも受け入れよう って、よく言われるし、まず土台は、自分が自分を愛すること って。
で、私もそうしたい、そうなりたい と願い、自分へアファメーション唱えてみたり、さすってあげたり、笑顔作って自分に投げかけたり、やってみてるけど、自分の中にそうできる部分と否定している部分があることに気づいた。 よくがんばったね と言ってあげるとこもあるのに、自分の体のこの状態は正直言って許せないと感じているな ということ。
どんな自分も受け入れ、愛する って、そんな簡単なことじゃないし、やっぱり葛藤も出てくるし、無意識にさっき書いたみたいに 受け入れがたいこともあったり、ほんと難しい。
でも、ここは認め、ここは否定し、 って自分の中に対局のものがあると、自分 というものも 「じゃあ、一体どっち? 受け入れたい!っていうのは本気か⁈」 と、自分から怒られてそう。。
受け入れがたいことに、オッケーはなかなかすぐには出せないけど、まずはそこに寄り添ってみようか。いいよー が言えなければ、そっかー。わかったー。 と言ってあげる。
以前、中庸に戻すこと を教わったことがある。振り子は対局に戻す力が強いから、ますばプラスマイナス 0 にしてみること と。
それが、寄り添うことなのかな。


自分の声を聴いたら、それをやることに否定や罪悪感はいらず、ただ楽しむこと。味わうこと。
自分の中に受け入れられることと、受け入れられないことがあっても、受け入れられないことは中庸に戻してみる。

今日の気づき。 また今から生かしてみよう。


アファメーション唱えてみたりしているけど、なんか上滑りしているような感じもして。
それって、アファメーションを信じていないのかも。。
今日からは、アファメーションを信じて唱えてみよう。実験だ!
信じるものに、力は宿る☆