昔々、といっても、まだそれほど昔ではない。

東京のどこかに、一人の女がいた。

名前は、秋。

彼女は昔から、ずっと頑張ってきた。

頑張れば、いつか誰かに認めてもらえる。
ちゃんとしていれば、いつか大切にしてもらえる。

そう思っていた。

けれど人生というものは、なかなか思い通りにはならなかった。

家族のこと。
夫婦のこと。
仕事のこと。
人間関係のこと。

どれも、「どうして私ばかり」と思うことが、一つや二つではなかった。

それでも秋は働いた。

仕事そのものは嫌いではなかった。

むしろ、仕事ができるようになることは嬉しかった。

新しいことを覚える。
技術を身につける。
できなかったことが、できるようになる。

蛍光もできる。
スプータもできる。

もっと経験を積んで、実績を作って、
「私だってちゃんとできるんだ」
と証明したかった。

給料だって、もっと上げたかった。

ところが、職場という場所には、
仕事だけでは説明できないものがある。

誰が誰を好きか。

誰が誰の味方か。

誰が誰の悪口を言ったか。

誰が何を言った、言わない。

そんなものが、顕微鏡の向こう側よりもずっと見えにくく、秋を苦しめた。

高野

浦橋。

佐々木。

遠野

そして、いろいろな人たち。

秋は何度も思った。

「なんで、ちゃんとやっている私がこんな思いをしなきゃいけないの?」

蛍光には固定の人が入っている。

自分だってできるのに。

塗抹鏡検のことだって納得できない。

誰かのミスがあっても、なぜか許される人がいる。

言った者勝ちのような空気もある。

そんな毎日の中で、秋の心は少しずつ疲れていった。

ある日、誰かが言った。

「あの人とスプータやるの、やだ」

その言葉は、たった一言だった。

でも、秋の胸には深く刺さった。

陰で何か言われている。

自分が知らないところで、自分のことが語られている。

そんなことが続くと、
人はだんだん、自分自身まで疑い始める。

「私って、そんなに嫌な人なのかな」

「私の何が悪いの?」

「どうして誰もちゃんと見てくれないの?」

答えは出なかった。

それでも、秋には一人だけ、
どうしても目で追ってしまう人がいた。

14歳年下の人。

職場で出会った、ずっと年下の人だった。

冷たいと感じることもある。

近づけば遠ざかるような、
何を考えているのかわからない人だった。

それでも秋は、その人を長い間、目で追っていた。

もう諦めよう。

そう思っても、気づけば目で探している。

人を好きになるというのは、
理屈では止められないものらしい。

秋は自分でも、
「なんでこんなに気になるんだろう」
と思っていた。

でも、それは恋だけではなかったのかもしれない。

誰かに必要とされたい。

誰かにちゃんと見てほしい。

誰かに「あなたでいい」と言ってほしい。

そんな気持ちが、長い間、秋の中にあった。

だからこそ、
冷たい態度を取られるほど、
余計にその人を気にしてしまったのかもしれない。

そんなある夜。

秋は突然、全部投げ出したくなった。

仕事なんかしたくない。

何も考えたくない。

ただゆっくりしたい。

でも、お金は必要だった。

生きていくには働かなければならない。

矛盾している。

逃げたいのに、逃げられない。

そんなとき、秋はふと、自分が料理をするのが好きだったことを思い出した。

料理ならできる。

パンも好きだった。

いつか、サワードウのパンを焼く店をやってみたい。

小さな店。

焼きたてのパンの匂い。

小麦の束を描いたパッケージ。

誰かの顔色をうかがわなくていい場所。

自分の作ったものを、
「おいしい」
と言ってもらえる場所。

そんな未来を想像すると、
ほんの少しだけ胸が軽くなった。

そして秋は、
変なこともたくさん考えた。

「もうイカになりたい」

白衣を着て、
顕微鏡を見ているイカ。

名札には「野口秋」。

足は何本もあるから、
仕事も全部こなせる。

嫌なことを言われても、
「イカだけに、いいか」
なんて言って笑ってしまう。

そんなくだらない想像をしているときだけ、
秋は少し自由だった。

長い足のタヌキを描いてみたり。

変な財布を想像したり。

動物になりたいと思ったり。

泣きたいと思ったり。

そんな小さな遊びが、
実は秋の心を守っていた。

人生は、いつも真面目に生きる必要なんてない。

イカになったっていい。

タヌキになったっていい。

泣いたっていい。

笑ったっていい。

秋は少しずつ、
そんなことを覚えていった。

ある日、秋は自分の手を眺めた。

手相を見てみた。

結婚線。

恋愛線。

人生の線。

そこに未来が書いてあるのかどうかは、
秋にはわからなかった。

占いもした。

四柱推命。

六星占術。

タロット。

いろいろな方法で、
これからの自分を知ろうとした。

けれど本当は、
未来を知りたかったわけではない。

「私はこれから幸せになれるの?」

それを誰かに聞きたかっただけなのかもしれない。

そしてある夜。

秋はようやく気づいた。

人生は、
誰かに認めてもらうためだけのものじゃない。

高野が何を言おうと。

浦橋がどうしようと。

佐々木がどう判断しようと。

遠野が誰を評価しようと。

14歳年下のその人が自分をどう思おうと。

それだけで、
秋の価値が決まるわけではない。

秋には秋の人生がある。

料理が好き。

パンを焼きたい。

動物が好き。

変な絵を描くのも好き。

人を好きになることもある。

仕事で悔しがることもある。

泣きたくなることもある。

それ全部が、
秋だった。

完璧じゃない。

強くもない。

ときどき疲れて、
「もう無理」と言う。

それでも次の日には、
また起きる。

白衣を着る。

顕微鏡をのぞく。

そして、小さな世界を見つめる。

顕微鏡の中には、
肉眼では見えないものがたくさんいる。

見えないからといって、
存在しないわけではない。

それは、
秋の人生も同じだった。

誰にも見えていない努力がある。

誰にも知られていない涙がある。

誰にも話していない傷がある。

そして、
誰にも見せていない夢もある。

だから秋は、
もう一度、自分の人生を始めることにした。

いつか、小さなパン屋を開くかもしれない。

開かないかもしれない。

仕事を続けるかもしれない。

別の仕事に行くかもしれない。

恋を諦めるかもしれない。

また誰かを好きになるかもしれない。

未来はまだ決まっていない。

でも、それでいい。

人生という物語は、
まだ途中なのだから。

そして秋は歩き出す。

少し疲れた身体で。

少し傷ついた心で。

それでも、
自分の足で。

ふと空を見上げる。

雲の向こうに月が出ていた。

秋は笑った。

「まあ、人生なんて、そんなに簡単じゃないよね」

そして小さくつぶやいた。

「でも……私、もうちょっと幸せになってもいいよね」

月は何も答えなかった。

けれど、
その夜の秋には、

それで十分だった。