読みながら自分の実家の風景を思い浮かべました。

昔は大所帯だった一軒家、いまや80代目前の祖母が一人暮らしをしていて、その家にはひとり分以上のモノが詰まっていて(押し込まれていて)、実家の4割は「倉庫」みたいな役割を果たしている、うちの実家。

ばぁちゃんはたまに断捨離熱に燃えてモノを捨てているみたいだけれど、それでもモノはそんなに減らなくて、しかもわたしが幼い頃に遊んでいたぬいぐるみが飾ってあって、ばぁちゃんそんなにぬいぐるみ好きだったっけ…?と疑問に思ったり思わなかったり。

実家に帰るたびに、そのモノ自体の懐かしさと時間が経ったことの感慨深さ?のようなものを感じるのです。

人形には魂が宿っていて…という話はよく聞きますが、やっぱりモノを長く持つとそのモノ自体にも魂が、魂的な物語が宿るのかもしれない、とこの物語を読んでそう感じました。

古川真人「背高泡立草」は、とある休日、母の実家の納屋の草刈りに駆り出される一家の日常が描かれながら、古い実家に「残されたもの」の物語がぽこぽこと浮かび上がってくる物語です。

納屋は誰にも使われず、ただそこに存在しているだけ。草が生い茂っていて、年に数回母たちは納屋の草を刈り、納屋の換気をし、こまめにお手入れをするのです。

娘の奈美は貴重な休日になぜ労働しなければならないのか、そしてなぜ誰も使っていない納屋を綺麗にする必要があるのか疑問でしかなく、母にその疑問をぶつけてみても要領を得ず、その疑問はうやむやのままになります。

その後、彼らの日常描写が続きますが、まるで別の物語が息を吹き返したかのように、唐突に「残されたもの」をめぐる別の物語が浮かび上がってくるのです。

「残されたもの」とは、納屋それ自体であったり、母の実家で一人暮らしをする「敬子婆ちゃん」の記憶であったり、隣の家で場所を取っている大きなカヌーであったりします。

残されたモノや記憶を引き金にして場面が変わり、「残された物語」が描かれ、そしてまた一家の休日へと舞い戻ってゆきます。

現代を生きるわたしたちには意味もなく放置されているように見えるモノであっても、時間を巻き戻せば自分のまったく思いもよらない物語が展開されているのかもしれない、ということを考えさせる物語でした。

モノや記憶はそういう物語を包み込み、タイムカプセルのようにどこかに埋め込まれ、そして忘れた頃に開封される。
そういう性質をもったものなのかもしれません。

わたし自身、実家にいるときは、なんだか時間が逆戻りするような、幼い頃の記憶がずっと留まっているような空気を感じ、むずがゆく思うことがあります。

でもしばらくすればさっぱり忘れ、実家でごろごろしてさっさと東京に帰るのですが、また実家に帰れば同じことを感じ続けるのだろうなと思います。

それが残されたものの“磁力”なのかもしれません。
この物語にはそんな“磁力”が描かれていたのだろうと思いました。


★個人選書サービスはじめました★
文庫本一冊からあなたにぴったりな本をおすすめします😊
詳細はこちらから💁‍♀️