わたしは沖縄の海が大好きだ。


太陽に照らされるきれいな青と緑。
眺めているだけで、陽気な心地にさせる色。

静かにきらめく海を見つめていると、こんな美しい場所で凄惨な戦いがあったなんて信じられない。
そう無邪気に思いたくなる。

それでもこの海と土地は数えきれないほどの怒り、悲しみ、嘆き、祈りを吸い込んできたのだった。

沖縄はアメリカと「日本」に翻弄された土地だった。
不思議な書き方だが、「日本」も例外ではないのだ。

この物語では「沖縄/日本(本土)」と明確な線引きがされていて、「日本人」のわたしは切ない思いを抱いた。
けれどこの物語を読んでいたら、それは仕方のないことだと思った。

どうしてここばかり。
どうしてわたしたちばかりが、悲しい目に遭わないといけないんだ。

たまたまそこで生まれ育ったからという理由で大きな理不尽の渦に呑み込まれた沖縄の人々は、忘れたくても忘れられない凄惨な悲劇に怒り、嘆き悲しみ、やりきれなさに呆然としながらも、それでも「なんくるないさ」と言って支え合って生きていた。

けれど、いつまでも我慢してはいられない。
彼らの怒りは「語り部」の手により、熱狂的なエネルギーをもってわたしたちに沖縄の想いを知らせてくるのだった。

真藤順丈『宝島』はひとりの英雄の面影を追い続けた4人の「沖縄人」の物語。
舞台は戦後まもない沖縄・コザ(合併し現在は沖縄市となっている)。
当時、米軍基地へ忍び込み救援物資や食料などの盗み、沖縄で生活する人々に配る「戦果アギヤー」という活動をする人々がいた。

彼らのほとんどは血の気の多い若者で、この物語の登場人物たちも20歳の青年・オンちゃんをリーダーとする「戦果アギヤー」のグループだった。

主な登場人物は、オンちゃんの弟のレイ、幼なじみのグスク、幼なじみでオンちゃんの恋人のヤマコだ。

オンちゃんは「英雄」と呼ぶにふさわしい人物だった。
誰もがオンちゃんに憧れ、そして惹きつけられた。

「戦果アギヤー」の日々は、彼らの怒りのはけ口となり、住民へ支援物資を配ることで心の慰めになった。
彼らはこれこそが「アメリカー」に一矢報いる方法だと言ってはばからなかったのだが、ある日を境に「戦果アギヤー」たちに大きな試練が訪れる……。

それは米軍の最大拠点「キャンプ・カデナ」を襲撃したときだった。
いつもと違い、予想外の展開に見舞われた。
米兵たちに見つかってしまい、逃げ回る「戦果アギヤー」たちに米兵は発砲、「戦果アギヤー」たちの数人が倒れるほどの大騒動になってしまう。

レイとグスクはオンちゃんと共に基地内に潜入しており、ヤマコは基地外で皆の帰りを待っていた。
しかし、全員の帰還は叶わなかった。
嘉手納基地襲撃以来、オンちゃんは生死もわからず行方をくらましてしまったのだった……。

オンちゃんという「英雄」を失ってしまった彼らは、それぞれ背中を向けるようにしてそれぞれの道を歩み始める。
彼らの関係においてオンちゃんは重要な接着剤だった。
接着剤がなくなれば、彼らは離れてしまうほかなかった。

それぞれがそれぞれの道を歩みながら、オンちゃんの生きた足跡を探し出そうとした。

そして月日は流れ、彼らのもとにひとりの不思議な少年があらわれる。

少年はアメリカ人と沖縄人のハーフと思われるような顔立ちをしていた。
少年の出自は不明で、彼らにくっつくばかりで何も語らないのだが、成長するにつれて「英雄」の面影を追う「沖縄人」になってゆく。
そして物語の重要なキーパーソンとして、物語は思わぬ方向へと進むのだった……。

題材が題材なだけに、この物語はなかなかにぶ厚い。

本の厚みだけでなく(単行本で530頁を超える超重量級ではあるのだが)、沖縄の歴史、「戦果アギヤー」たちの人生、少年の謎、「語り部」の存在など物語構造としてもぶ厚く、この文章量でなければならない説得力を感じた。

そして何より感じるのは彼らの「熱」だ。
オンちゃんを慕う熱。
故郷を愛する熱。
大きな理不尽と悲しみに猛り狂う人々の熱。

それを「語り部」たちが適度に冷ましながら(合いの手をいれるなどして)、わたしたちにほとばしる熱を届ける。

これは、沖縄人でなくとも胸を打たれずにはいられない。

わたしは今までに2度沖縄を訪れたことがあるが、この物語を読み終わってもう一度沖縄に行きたくなった。
沖縄の平和や幸せを祈ることしかできないけれど、それでも、「熱」は確かに伝わった、という思いを胸に、きれいな海を眺めたくなった。

傑作だと思った。