![]() | 新潮 2018年 11 月号 1,743円 Amazon |
昨日読んだ「戦場のレビヤタン」は、人生で心から打ちこめるものがない人間のむなしさが描かれていたけれど、今日読んだ町屋良平「1R1分34秒」(新潮11月号)はまるで真逆で、心から打ちこめるものがある人間の苦悩が描かれていた。
主人公はプロボクサーの「ぼく」。
「ぼく」はプロボクサーだがファイトマネーだけでは食べていけず、パチンコのバイトをしながら生活している。
バイトのかたわら練習や減量はきっちりこなしているが、プロになってからというもの、試合は初戦以降勝てていない。
物語は「ぼく」が敗ける場面から始まる。
試合の時は無我夢中だけれど、敗けてしまうとその数日後に敗けた試合がまざまざと頭の中で蘇り、対戦相手への恐怖、自分の身体が動かなかったことの悔しさ、プロとしての焦り、そしてそれらを通り越した無気力状態に陥る。
「おまえは死力を尽くしたか?」
「最後の最後までいっこのボクサーを遂げたのか?」
「さいごのダウンで、おまえはほんとうに立てなかったのか? ほんとうには立てたんじゃないか?」
「奇跡の大逆転は、ほんとうにありえない未来だったか?」(96頁)
「ぼく」は頭の中で自分を追い詰めつづけ、ひたすら敗けた事実に打ちのめされる。
だからと言ってボクシングをキッパリ諦められるほどではなく、その自意識が「ぼく」の心を苦しめる。
ある日、「ぼく」はトレーナーに呼ばれ、トレーナー交代の知らせを受ける。
「ぼく」はとうとうトレーナーに見放されたと愕然とするが、代わりにやってきたウメキチはボクシングのセオリーを無視した実験的なトレーニングを提案し、「ぼく」は半ば投げやりな気持ちで従うのだが、次第に「ぼく」は身体も心も少しずつ変わっていくことを実感する……。
ウメキチが出てくるまでの「ぼく」の心の追い詰め方は、わたしにはとても心当たりのあるものだった。
3ヵ月ほど前のことだが、今年の2月からお世話になっているライティングゼミで「よくできました」的な評価をいただいた。
「よくできました」をもらえると、今後は「公認ライター」として名乗る権利を与えてもらえる。
つまりプロとしてのライセンスをもらったのだ。
「よくできました」をいただいたときは心の底から驚き、恐縮した。
しばらくしてから「公認ライター」のうれしさがこみ上げ、これからもモリモリ書くぞ! とやる気が湧いた。
もしかしたらそこで「わたしはもう大丈夫」と油断してしまったのかもしれない。
それからゴリゴリ書き続けているものの、わたしもなかなかに「敗け続け」ていて、敗けるたびに自分を責め続ける日々を送っている。
もっと渾身の記事を書けたんじゃないの?
忙しいから、っていつまで言い訳にしてるの?
もっともっと工夫できたんじゃないの??
しばらくこんな感じで自分を責め、ぐあああ~! とひとり悶絶して、そしてゆっくり起き上がって粛々と記事を書く。そんな生活を送り続けている。それをなぞられたような「ぼく」の心情描写にドキッとした。
この物語にはボクシングジムで関わる人たちとボクシングとは全く関係のない友人が登場する。
友人は趣味で映画を撮っていて、休みの日に「ぼく」を呼び出してはiPhoneで「ぼく」を写してドキュメンタリー風の映像を撮ろうとする。
彼らはとっても不安定だ。
「ぼく」は敗けたショックを引きずっていて、友人の前で語る言葉は情けない言葉ばかりだ。
友人も友人で、「賞を獲った」とうそぶいたり川辺で半狂乱しながら映像を撮ったりする。
彼らの不安定さ、嫉妬、苦しみ、ちょっとした怠惰にわたしは思い当たるふしがありすぎる。
そして、自分のなかのこれらのものを克服できる者だけがプロで居続けられるのだ。「ぼく」はそう思い至る。わたしも同じくそう思う。
ボクシングのことは全然わからないけれど、最後まで「ぼく」に共感しながら読むことができた。
「1R1分34秒」は自分が心から打ち込むものへの苦悩と、その果てにある「勝利」への軌跡を描いた青春小説だと思った。
青春というと若くて青くて、というイメージになってしまうが、この物語は薄暗くて泥臭い。
「ぼく」は「敗け」を強く意識し、自分を追い詰め、打ちのめされながらも、ゆっくりと起き上がって、粛々と来るべき試合に備えてメニューをこなす。
物語は勝利へのきざしが見えそうなところで幕を閉じるが、これこそがプロのあるべき姿なのだろうと思わせる結末だった。そしてどれだけ落ち込んでも自分のプライドを手放そうとしないところに、わたしは青春を感じたのだった。
わたしは読みながら、泥臭くてもがんばりたいと思った。
何かに集中して泥臭くなれるものがあるということは、やっぱり素敵だ。

