粉をお湯で溶かすタイプの飲み物が苦手だ。
 
ミロでも、ココアでも、コーンスープでも、せっかちなわたしはどうしても粉をとかしきれず
上が薄くて底に濃い粉のかたまりがすみっこに沈殿した嫌~な飲み物をつくってしまう。
 
ちいさい頃はそれでも我慢して飲んでいたのだけれど、いつのまにかミロもココアもコーンスープも飲まなくなって、沈殿した粉のかたまりをうとましく思うこともなくなった。
 
そんなことを考えたのは、三国美千子「いかれころ」を読んだからだった。

「いかれころ」にはココアをうまく溶かしてくれる、丁寧で優しい人が登場する。

しかしこの物語にはどうにも溶かしきれない沈殿した黒い感情が漂い、うとましさが溢れんばかりに描かれている。

それがわたしの哀愁を誘い、黒い感情がココアのかたまりみたいに「ゲー」と吐き出せるものだったらどんなに良かっただろう……と考え込ませたのだった。
 
三国美千子「いかれころ」は、大阪南部にあるとある一家の「家」のうとましさ、切っても切れぬ縁と親族ならではの“毒”が描かれている。
 
この物語は主人公「私」の幼少期を回想するかたちで物語が進む。

「私」は杉崎家の「分家」の娘として、本家のすぐ近くの家に住んでいた。
杉崎姓の母・久美子は夫を婿養子に迎え、事あるごとに実家に頼り親のすねをかじる生活を送っていた。
 
本家には久美子の父母、祖母、久美子の妹の志保子と弟の幸明が住んでいた。
本家の話題は常に杉崎家の名に恥じないように生活することであり、その頃の話題は志保子の結婚だった。
 
志保子は自分の意志をはっきり示す姉の久美子とは正反対で、慎ましく繊細な人柄だった。
あまりに繊細なために「セイシンの発作」をおこし、どんなときも「宝物一式」が入ったカゴを持ち歩いていた。
 
家族はそんな志保子の繊細さをうとましく感じ、「杉崎家の名に恥じないように」25歳までに縁談をまとめ、“申し分のない家柄”のところに嫁がせようとしていた。
 
「私」はそのころ4歳で、大人たちの会話を見聞きしたり話したりすることはできるが、会話の中にひそむ「沈殿したもの」までは図りかねる年頃だった。

けれどちいさいながらも不穏なものを感じ、「私」は母の久美子に反抗し、ひっそりと志保子を慕うのだった……。
 
志保子を一番うとましく思うのが「私」の母・久美子で、久美子は志保子の慎ましさや繊細さが鼻について仕方なかったのだった。
久美子は久美子で「杉崎家の名に恥じないように」婿養子を迎え、初孫も生み、第二子を妊娠中だった。

しかしどうにも本家を頼るくせがあり、夫との仲も冷めている「分家」の雰囲気はあまり良くなく、「私」は幼いながらに孤独感をつのらせるのだった。
 
本家からの「杉崎家の名に恥じないように」という圧力、志保子の繊細さを受け入れられない家族たちの狭量さ、分家を建ててもらったものの実家に通い詰めの久美子の頼りなさを「私」は見つめ、淡々とその様子を描いていくのだが、
幼い「私」の視点とおそらく大人になってからの「私」の視点が混在し、当時の状況を冷ややかに語っていくところに哀愁を感じてたまらなくなった。
 
これが恋人や友達などの他人だったらまだしも、切っても切れない縁、忘れようとしても忘れられない家族の思い出は「私」の心に深くこびりついて離れない。
 
“おそらく大人の「私」”視点が入り込んでいることで、良くも悪くも因縁の深さと「血」のうとましさをさらに感じさせ、言いようのない圧迫感に包まれながら物語は幕を閉じるのだった……。
 
この作品を読もうと思ったのは社会学者の岸政彦さんのツイッターで絶賛されていたから。


 
(よくよく見たら「まだ読んでない」って書いてあった…笑)

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」、高橋弘希「送り火」など、最近の芥川賞受賞作は“地方モノ”が多いのだが、これも候補作に入りそう。
「おらおらでひとりいぐも」「送り火」とはまた違う、日本のどこかに残っているかもしれない「家」のうとましさに苦いものがこみ上げる人が多い気がした名作だった。