ティーンエイジャーのなかでひろまってるナウい(死語)言葉、まじ卍。
もう廃れちゃった?まだいける?2000年代の子ぉらの感覚にはついていけません90年代のたけしまです。
平成ももう30年経つんですね。「えっ平成生まれ!?!?」とかってちやほやされてたころが懐かしいっすわぁ……。

まじ卍からはじまっちゃったからどうにもくだけた言葉遣いですいません。

とにかくわたしは「卍」の意味を知らず、卍といえば「まじ卍」か谷崎潤一郎先生しか浮かばない教養のない人間なのですが、その『卍』も読んだことがなく、新潮文庫の特装版になっていたという安易な理由で日本文学読み直しをしたのでした。

読み終わった感想。

……まじ

えっ、もしかして谷崎潤一郎『卍』って世の高校生みんな読んでるの!?
部屋とワイシャツと谷崎潤一郎みたいな感じでいつもそこにあったの!?!?

なんかよぉわかりませんけど、とにかく『卍』を読み終わってまじ卍の意味を深く理解したのでした。いや〜、まじ卍。
(と言いつつこれもうとっくに廃れてたらめっちゃ恥ずかしいやつ……うかつに若いもんに手ぇ出さんときます。)
ということで感想。

「卍」の本来の意味は、めでたいものの象徴や紋章を意味しているらしい。
勝手に「台風の目」的な?とイメージしていたらぜんぜん違った。中心って意味ではちょい当たってるかもだけど。

谷崎潤一郎『卍』はひとりの女性に翻弄される男女の物語で、著者のように暗示される「先生」が、登場人物のひとり・柿内園子の話を聞く(カウンセリングのような雰囲気)かたちで物語が展開される。

園子が大阪・天王寺にある芸術学校(専門的なものでなく、お遊びの学校)で出会った女性・徳光光子に一目惚れし、ひょんなことから距離が近づきいろんな意味で「仲良し」になってしまったことが、ことのはじまりだった。

園子は夫のいる身だが、夫を本気で好いているわけでなく、このままでいいんだろうかと悶々としているなかで光子に出会ってしまった。光子も光子で園子との思わぬ距離の縮まりに驚くものの、まんざらでもない様子。光子は顔も身体も「器量良し」という、人目を惹く外見をしていたのだった……。

園子と光子が「そういうこと」になってからというもの、園子の夫婦関係は荒れる一方。園子は夫になんやかんやと嘘をついて、光子と密会を続けるのだった。園子の夫はいわゆる「常識人」だから、まさかうちと光子さんの間を疑ったりしないだろうとタカをくくっていたのだが、それも次第にごまかしがきかないくらいに夢中になってしまうのだった……。

今よりも偏見の目が強い時代に、同性愛の要素が盛り込まれた物語を出したことで当時はどんな反応があったのだろう……と純粋に気になった。この物語は夫の目、世間の目、常識に気を遣っていて、いちいち「ダメだと思っているのだけれどやめられなかった」という言い訳めいた言葉をはさんで物語が進む。ダメってわかっていることだからこそ余計に燃えちゃうようで、言い訳しながらも道ならぬ恋の熱はエンジン全開・フルスロットルであることは明記しておきたい。

はじめこの物語は、同性愛に目覚めてしまった女性たちの話なのかと思うのだが、読み進めると実はそうでもない。
後半部で「えぇ、そうなっちゃう!?」という展開になり、どんどん泥沼にハマり、登場人物は破滅の道へと進んでいく……。

もしかしてこんな感じになるのかなー?という予想を簡単に裏切ったかたちで物語は幕を閉じた。わたしのような凡人が簡単に想像できるもんじゃないんだッ!!ということを実感した結末だった。

徳光光子はその名の通り神々しく、性別を越えて人々を魅了する器量を持ってしまったのだった。
器量良しに生まれただけで罪はないのに厄介な人間に絡まれる光子の苦悩、そして光子に惹かれてしまう登場人物たちの盲目さを目の当たりにし、「あぁ、こりゃ破滅しかないかも」と物語の結末に妙に納得してしまう自分がいたのだった……。笑

光子は台風のように光子に関わる人全員を振り回しかき乱す。だんだん台風の中心として周りをかき乱すことに快感を覚え、違う意味で目覚めてしまうのだった……。

わたしはこの物語で同情するとすれば、光子のお世話係の梅子(通称・お梅どん)だなと思う。

お梅どんは自分の生活のために光子の注文をいちいち聞いてあげていたのだが、あることがきっかけで光子の家から暇を出されてしまう。

道ならぬ恋のあれこれはお梅どんがいなければ成立しなかった。それなのに、登場人物全員お梅どんに感謝せずスルーしてしまったのだった。
それぐらい恋愛に夢中になっちゃったと言えば良く聞こえるが、お梅どんからすると迷惑きわまりない話。ていうかみんな有難がれよ。

台風が過ぎると清々しいほどの晴天になるけれど、人間の台風は切なさと後味の悪さを残してしまうのだった。
まじ卍な一冊だった(まだ言う)。