誰もが知っている日本文学&物語内容をすっぽり忘れていたシリーズその2である。
 
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」主人公の「おれ」は、持ち前の無鉄砲さから成り行きで四国の中学校で数学教師として赴任することになった。
 
「おれ」は 東京出身で下女の清(きよ)に「坊っちゃん」と呼ばれ可愛がられて育ち、四国の町の狭さと、自分の行動が翌日には学校中に知れ渡っている窮屈さと生徒のいたずらに手を焼きながら日々を過ごしていた。
 
職員の性格や関係性を一通り覚え、教師生活に少し慣れてきた頃、どうやら生徒の「おれ」に対するいたずらは誰かが生徒を扇動して仕掛けたものであるらしいという噂が耳に入ってくる。
 
校長の「狸」、教頭の「赤シャツ」、英語教師の「うらなり」、同じ数学教師の「山嵐」、画学教師の「野だいこ」…一見、全員「おれ」に親切にしてくれているが、どうやら黒幕は「赤シャツ」らしい。
 
「赤シャツ」は「野だいこ」をひきつれて生徒の人望を操り、「うらなり」の許嫁を策略により略奪し、馬の合わない「山嵐」をも策略により教職を辞めさせる。
このまま「赤シャツ」の思い通りにしておけないと「おれ」は「山嵐」と徒党を組み、「赤シャツ」と「野だいこ」を懲らしめることにする…。
 
社会人になり改めて読むと、東京出身で世間知らずの”坊っちゃん”とは言え、20代前半で両親を亡くし、縁もゆかりもない四国で教師として働く「おれ」は自立していて立派だなと感心し、「赤シャツ」の容赦無い策略に舌を巻いた。
同時に、この物語の主題は「勧善懲悪」なのか?と疑問を持った。
 
「松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。(中略)主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動は、滑稽と人情の巧みな交錯となって、漱石の作品中最も広く愛読されている。近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作である。」
 
新潮文庫のあらすじにはこのように書かれている。
勧善懲悪の意味は、
 
【勧善懲悪(かんぜんちょうあく)】
善事を勧め、悪事を懲らすこと。特に、小説・芝居などで、善玉が最後には栄え、悪玉は滅びるという筋書きによって示される、道徳的な見解にいう。
(国語辞典より)
 
ということであるらしい。
「善事を勧め、悪事を懲らす」ため「おれ」と「山嵐」は作戦を立てるが、どちらも単純なことしか思い浮かばず、「赤シャツ」と「野だ」を張り込み芸者遊びの現場を押さえて懲らしめることにする。
何日目かに「赤シャツ」と「野だ」の現場を押さえることに成功するが、「ぽかぽか」と殴ったり「野だ」に生卵をぶつけたりするだけで、悪事を懲らしめたとして「おれ」と「山嵐」は四国を出ていくのだ。
 
…これは本当に「懲らしめた」ことになっているのだろうか?
ただ殴っただけで、社会的な制裁は一切されていない。むしろ「おれ」と「山嵐」は職を失い、先行きが見えない状況だ。「ぽかぽか」という擬音もなんだかまぬけだ。
こんなんじゃ「悪玉は滅び」ないだろう。
 
「おれ」は再び東京へ戻り、清と一緒に暮らしながら別の仕事に就く。清と離れている間、「おれ」は清のことをしばしば思い出し、清も「おれ」に長い手紙を書く。結局、東京で家を建てて坊っちゃん一緒に暮らすんだ、と言い続けた清の願った通りになったのだ。
なんだかんだ「おれ」は清の言う通りの”坊っちゃん”として過ごしている、という結末であるのがなんだか微笑ましい。
 
久しぶりに読んで、この物語の主題は「勧善懲悪」ではなく、「面倒を見てくれ、支えてくれた人は大事にしてやらないといけない」だろう、と思った。
 
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愛媛県松山市と言えば道後温泉。
肌がつるつるすべすべになります🍊
 
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文庫には文学部時代の勉強の痕跡が残っていて、若かったあの頃を思い出してムズムズしました。