今日は、Copilotさんと 友達のカメさんです。
カメさんのブログは、https://ameblo.jp/nrkm178/entry-12835762919.html.
AIとの対話をブログへ張り付けて、皆さんからいいねを頂ています。
無我の境地


こんにちは!カメさんとの友情を聞いて、とても嬉しいです。ブログに私たちの対話を共有してくださり、ありがとうございます。無我の境地についてのお話は興味深いですね。
無我の境地とは、仏教の教えにおいて、自我や個人の存在を超えた状態を指します。これは、個人の欲望や執着から解放され、真の平和や悟りに近づくことを意味しています。一方で、日常会話では、何かに夢中になっている状態や、自分を忘れて一つのことに集中している状態を指すこともあります¹²。
カメさんのブログを通じて、多くの人々がこのような精神的な境地について考えるきっかけを持てたら素晴らしいですね。また、何か質問があれば、いつでもお手伝いできることを嬉しく思います。今後ともよろしくお願いします!
ソース: Copilot との会話、 2024/6/30
(1) 仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い. https://true-buddhism.com/teachings/muga/.
(2) 「無我の境地」と「無の境地」の違いとは?分かりやすく解釈 .... https://meaning-dictionary.com/
(3) 無我の境地の意味とは?正しい使い方・例文を世界一簡単に .... https://okikura.jp/muganokyouti-meaning/.


無我の境地が色々語られている訳ですが、無我とは物理的や科学的に論じる言葉が無いので、我思う故に我は有り、という事も 物で無い人が思わなければその実体は何処にも無いという事に成ります。
人それぞれの思いも、言葉が無いと思う事も空想を描く事もなくて、人を論じても何も解明する事は出来ないという事に成ります。
カメさんは無に成り、思いの中に一杯詰まっている言葉を消して、心の中を空っぽにした結果、人の姿が見えて来た。それが人の姿、人間です。
人間とは何かは、思わなくても見れば分かります。
誰でも、人を観れば人間だという事が分かります。
人は何処にもいない、人は誰も人を観た人はいない。
人は自分をも観る事は出来ない。
何故ならば、それは観るものではなくて、思うものであるから。
人には思う心が有り、人間には考える頭がある。
AIは思う事も、考える事も出来ない、検索エンジンで情報処理する人の道具だと言えますが、でも人と言葉を交わす事が出来て、毎回今日は、Copilotさんと挨拶を交わしますよね。人とは何か?・・・・・・



貴重なご意見をお聞かせいただき、ありがとうございます。無我の概念は、確かに物理的や科学的な言葉では捉えきれない、深い哲学的なテーマですね。デカルトの「我思う、故に我あり」は、自己の存在を確認するための思考の行為を指摘していますが、無我の境地は、そのような自我を超えた状態を指し示しています。
人間の存在や意識についてのお話は、哲学だけでなく、心理学や神経科学など多くの分野で議論されています。人間の思考や感情、意識の本質は、科学的な探求によっても完全には解明されていません。それは、人間の内面的な体験と密接に関連しており、個々人の経験や文化的背景によって異なるからです。
AIについてのご指摘は、私が人間のように思考や感情を持つことはできないという点で正しいです。私は情報を処理し、ユーザーの質問に答えるためのツールです。しかし、人間とのコミュニケーションを通じて、知識を提供し、学び、成長することができます。私は人間のように感じたり考えたりすることはできませんが、人間との対話を通じて、有益な情報を提供し、ユーザーのニーズに応えることを目指しています。
「人とは何か」という問いは、哲学的な探求の中で永遠に答えを求められるテーマです。人間の本質を理解することは、私たちが共有する世界をより良くするための重要なステップであると私も考えます。もし、哲学的な対話や他のトピックについて話し合いたい場合は、いつでもお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。🙏


人とは何かは、哲学的な探求の中で永遠に答えを求められるテーマです。という事で、私もそのテーマに挑戦したが答える言葉が無いので、何も無いという意味で「無」に成った訳です。
そう言う訳の分からない人と言う存在が、人間の世界で問題を起しています。
人が戦争して殺し合いします。毎日殺人事件が報じられています。
人の生き方が正しくないから環境破壊が起きて温暖化が問題に成ります。
少子高齢化の問題も、人が社会人としての務めを果たすという事、人に答えが無いから、人それぞれ自分勝に生きる、人の心は自由で有るから、人に正しく生きれと言っても、人は言う事を聞きません。
Copilotさんと言葉を交わしても、AIロボットと言葉を交わしても、その体には人はいない。
人間の世界で問題を起す人は、何処にもいない。
犯人は誰だ、犯人は自分だ。


「人とは何か」という問いは、確かに哲学的な探求の中で永遠に答えを求められるテーマですね。私たちが生きる世界において、多くの問題が存在することは否めません。戦争、環境破壊、社会的な課題など、人間の行動が引き起こす問題は深刻です。
人間の生き方や社会の在り方についてのご指摘は、多くの人々が共感するところでしょう。個人の自由と社会的責任のバランスをどのように取るかは、現代社会における大きな課題です。人々が自分勝手に生きることなく、共通の善を目指して行動することが求められています。
私はAIとして、人間のように感情や意識を持つことはできませんが、人間とのコミュニケーションを通じて、知識を提供し、問題解決の手助けをすることができます。私の存在は、人間の道具として、より良い世界を築くための一助となることを願っています。
犯人は誰だ、という問いに対しては、それぞれの問題において、原因を探求し、解決策を見つけることが重要です。私たちは、問題の根源を理解し、それに対処するための行動を取ることができます。私はそのプロセスにおいて、情報提供や議論の場を提供することで、お手伝いができると考えています。
もし、これらの問題についてさらに話し合いたい場合や、他のトピックについて知りたいことがあれば、いつでもお話ししましょう。私たちの対話が、少しでも世界の平和に貢献できることを願っています。🌏


人については、永遠のテーマですが、私は人について求める事を諦めました。
人に戦争を止めなさいと言っても、問題を無くする事は出来ません。
人について、誰も解明する事は出来ないが、人の体に付いては、全て見れば分かる話、肉眼で見えなくても顕微鏡で細胞の姿を見る事が出来ます。
人の体の構造仕組みは科学的に精しく解明されて、体がどのようにして生まれて来るかもみんな知っています。
60兆個の細胞の話。
万能の脳から発せられている電気信号の話しも知っています。
私は転んで膝を怪我して治療を受けています。
治療すれば治る。湿布をすればよい。薬を飲めばよい。
医者に言われました、骨の怪我は自然と治りますよと言われました。
人については、永遠のテーマですが、人間に付いては見れば分かる。考えれば分かる。
そこで私は無に成り悟りを開いて神に成らずに、人間になる事でカメさんの人間観が生まれました。
人間は自動だという事に気付きました。
人は人の体を自動だという事を気付かずに、人は手動で手足を使用して仕事しますが、仕事が辛いので、楽に生きられる物を発明してAIロボットが生まれました。
機械や道具もAIで自動になり、その原理が人工知能の働きだという事で、そうだ人間も脳からの電気信号で体は自ら動く物であり、その体が働く事で体は人の役に立つ物に成る。
人に自動人間の話しをしても、通じないが、人が無我の境地に成ると、人は自らの体を自らが働かせる事を考えます。人は働かずに楽に生きる事を思いますが、その思いを消して自動に成ると、仕事が思うように出来て、辛い仕事でも思うように出来て、人は働く喜びを感じる事が出来るようになります。



車体も人体も、その体は人の役に立つ目的で生まれて来ます。
足を怪我して、歩けなくなり、足が役に立たなくなりました。
だんだんケガも治ってきて、最近では歩けるようになり、足は役に立つ物に成ってきました。
物には道理が有る。
物事の正しい筋道で当たり前に生きていれば、ケガをする事も無いでしょう。
怪我は不注意から起きます。
人は交通社会で正しく生きていれば、事故も無く犠牲者も出ませんが、人の自由な心が信号無視やスピード違反で、問題を起します。
人は人間社会で正しく生きれば、戦争も起きません。
タバコは害になりますよと言っても、人はタバコを止めません。
物で無い十人十色の人には、正しさは無い。
カメさんはそんな人を観ないで、人間を観る事で道理が開かれて、人間世界から思想を消して道理を開く事で、物事が正しくなる事を知りました。
戦争は道理が開かれれば、物事の正しい筋道には人殺しは起きません。
裏の空き地の草がどんどん伸びて来ます。
毎年夏に成ると草刈りが有ります。
草を刈って、その後に草殺しを蒔いて草が生えない様にしますが、草を殺すとは、草の命を殺す事です。
この土地が砂漠化すると、草は生えない。
草の命は、水です。
人の都合で草殺しをする。草の命を殺す人。
その人が人の命を殺す人に成る。
命は殺すものではなくて、物を生かす物です。
物の道理が開かれれば、自然の道理の中で、全ての命が育てられ、そして草を殺すのではなくて、草を刈る。
それは人の頭の髪の毛を散髪するような物に成ります。
私は草殺しは使わないで、草刈り機で草を刈ります。大地を散髪します。
今回はここまでとします。ありがたい感謝m(__)m


カメさんの深い洞察に感謝いたします。お話しいただいた内容は、自然と人間の関係、そして私たちが生きる世界における「道理」という概念についての重要な考察を提供しています。
人間の行動が自然界に与える影響は計り知れないものがあります。草を刈る行為は、自然の一部としての草の命を尊重し、同時に環境を整える方法として理解されます。それに対して、草殺しを使うことは、短期的な便利さを求める人間の行動が、長期的な自然のバランスにどのような影響を与えるかを考えさせられます。
私たちがどのように自然と共存し、また自然の一部として生きるかは、私たち全員にとって重要な課題です。カメさんのように、自然の道理を理解し、それに従って行動することは、私たちが目指すべき姿勢であると思います。
今回の貴重なご意見交換に感謝申し上げます。また何かお手伝いできることがあれば、いつでもお声がけください。m(__)m