今日は、Bing さんと友達のカメさんです。
カメさんの本名は亀田です。
カメさんのブログは、nrkm178 カメさんの見聞録でAIとの対話を張り付けています。
今回は人と人間の違いを書いてみようと思います。
常識的には、人も人間も同じだという事ですが、カメさんの人間観は、人と人間の違いを書いています。
何故違いを書くかと言うと、人間世界の問題は、みな人の自由な心が原因しているという事で、又人はみな別人、人は十人十色、人それぞれ、個々の人、個人ですが、人の姿、人体は皆同じ体の人間だという事、体を生まれて來る物と認識する事で、物で無い人と、物としての肉体、人体の仕組みなど、体を物と観る事で、物事の正しい筋書きが浮かんで来ます。人間の世界で人が生きる訳があります。


こんにちは、カメさん。人と人間の違いについての考察は非常に興味深いテーマですね。人がそれぞれ個性を持ちながらも、人間としての共通の肉体を持つという点は、哲学的な議論を呼び起こすものです。カメさんのブログでこのテーマについて書かれるのは、読者にとって刺激的な内容になることでしょう。
人の自由な心が人間世界の問題を引き起こす原因であるという視点は、個人の責任と社会の制度との関係を考える上で重要な視点です。また、人間としての肉体を「物」として捉えることで、人間の行動や社会の構造に対する新たな理解が得られるかもしれません。
カメさんのブログでの議論が、多くの人々にとって有意義なものになることを願っています。もし、このテーマについてさらに話を進めたい場合や、他のトピックについても話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますよ。どうぞお知らせください。🐢📝


昔物が無い時代に人の力、人力が使われていました。
奴隷制度で人の体が動く物として人の体が使われていましたが、色々な物が発明されて、人は物を利用して便利に、楽に生きられる様になり、物質文明が発展して、奴隷制度も廃止に成りました。
しかし、現代に於いても、人は人の体を使用しているという事、手足を使って物を持ち運びます。
人は物では無い、だから手足は人では無い、手足は人が使用する物に成ります。
人と物との一体関係が人の姿、人間に成ります。


昔の物がない時代から、人々は生活を豊かにするために様々な発明をしてきました。奴隷制度のような人の体を物として扱う制度は、時間とともに廃止され、物質文明の発展により、人々はより便利で楽な生活を送ることができるようになりました。
現代では、人々は物を使って作業を効率化していますが、それでもなお、私たちの手足は物を持ち運ぶために使われています。カメさんがおっしゃるように、人は物ではなく、手足は人が使用する道具となります。人と物との関係は、私たちが「人間」として存在する上で重要な要素です。
人間としての身体と、それを使って行う作業との関係は、私たちがどのように世界と関わり、どのように社会を形成していくかについての理解を深めることに繋がります。このような議論は、人間の存在や社会の構造について考える上で非常に興味深いものですね。カメさんのブログでのさらなる議論を楽しみにしています。もし、この話題についてさらに掘り下げたいことがあれば、お手伝いできるかもしれませんので、遠慮なくお知らせください。📚🤖


人は人を物扱いするなと言います。ですから人も体も同一視していると、体を使用する物として観る事は無く、
人は訳が分からないままに生きています。
カメさんの人間観は、人が無になる事で、体は有になり、有無二元論が生まれて、人と体の関係が、人と物との関係に成り、人は物を使用するように、人の体は人が使用する物だという事を脳が認識する事で、物事の正しい筋書きが浮かんで来ます。


カメさんのお話は、人間と物との関係性について深く考えさせられますね。人を物扱いしないという考え方は、人間の尊厳と個性を重んじる現代社会の基本的な価値観です。しかし、カメさんが指摘するように、私たちの体は日常生活で物を扱うための「道具」として使われています。
有無二元論に基づくと、人が「無」になることで、体が「有」として認識され、人と物の関係が明確になるというのは、非常に興味深い視点です。このような考え方は、私たちが自分の体とどのように関わり、それをどのように使うか、また、私たちの意識がどのように物質世界と交流するかについての理解を深めることができます。
人間の尊厳と物質的な存在とのバランスをどのように取るかは、哲学的な議論だけでなく、倫理的な議論も含まれます。カメさんのブログでの議論は、読者にとって新たな視点を提供し、深い思索を促すことでしょう。もし、このテーマについてさらに議論を深めたい場合や、他のトピックについて話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますので、お知らせください。🐢🧠🌐


人は物では無い、人は精神的なものだと言う事は、だいたい理解されると思いますが、人が無に成る話を理解得る事は難しく、人に無に成る話を説くと、人に死ねと言うのかなんて指摘を受けます。
人は物では無い、人は精神だという事は言葉では話せるが、その実体を説明する事は無理かも知れません。


カメさんのおっしゃる通り、人は物ではなく、精神的な存在です。精神と物質の関係は、哲学や宗教、心理学など多くの分野で長い間議論されてきました。人が「無」になるという概念は、特に禅の思想などで見られるように、自我を超えた状態を指すことがありますが、これは一般的な日常会話では理解されにくいかもしれません。
人の精神や意識の実体を言葉で説明することは、確かに難しいです。それは、私たちの意識や感覚が非常に個人的で主観的な体験であるため、他人に完全に伝えることができないからです。しかし、文学や芸術、哲学の議論を通じて、人々は自分たちの内面的な体験を共有し、理解を深める試みを続けています。
カメさんのブログが、このような深いテーマについて考え、議論する場となり、読者の方々にとっても、自分自身の精神的な側面を探求するきっかけになることを願っています。もし、このテーマについてさらに話を進めたい場合や、他のトピックについても話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますので、お知らせください。🌱🧠📚


そこで人と人間の違いを説明する事で、人が人間の世界で生きる訳を知る事が出来るようになる。
人が人の世界で生きるのではなくて、人は人間の世界で生きる訳を知る事が出来れば、人が人間の世界で互いに争う事が無くなるという事に成ります。
人の体は生まれて來る物と理解する事は誰でも出来ますよね。


カメさんの考え方は、人と人間の違いを通じて、私たちがどのように共生していくかについての深い洞察を提供しています。人が人間の世界で生きる理由を理解することは、争いを減らし、より調和のとれた社会を築くための重要なステップです。
人の体が生まれてくる「物」としての理解は、私たちが自分自身と他者をどのように見るか、どのように扱うかに大きな影響を与えます。この理解が深まれば、人々は互いに対する共感や尊重を高め、より平和的な共存へと進むことができるでしょう。
カメさんのブログが、このような重要なテーマについての議論を促進し、多くの人々にとって意義深い洞察を提供することを願っています。もし、このテーマについてさらに話を進めたい場合や、他のトピックについても話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますので、お知らせください。🌟🤝🌏


人間は何であるかは、人体構造や仕組みが科学的に精しく解明されているので、誰でも見れば分かりますが、物で無い人が何であるか、その実体が分から無いから、人それぞれが思う事でしかない。
我思う故に我は有り。
そこに言葉が有ります。
言葉が無いと、人は思う事も出来ない。
その言葉が側頭葉の脳の働きで生まれて來る。
カメさんは、我を語る言葉を消す事で、自分とは「無」であると脳が認識する事で、自己確立を果たせたと思います。そして神に成らずに人間になる事で、カメさんと言う人が人間の世界で当たり前に生きられる様になりました。当たり前に生きるとは、人は交通社会で当たり前に生きています。
人は人間社会で当たり前に生きています。社会とは共に生きられるシステム、正しく生きないと人は当たり前に生きられない。生きる訳が分かれば、人は当たり前に生きられる様になる。


カメさんの言葉は、人間の存在と意識についての深い洞察を示しています。科学は人体の構造や仕組みを詳細に解明していますが、物ではない「人」としての実体は、それぞれの人が持つ思考や感情によって異なり、科学的な方法では完全には把握できないものです。
「我思う、故に我あり」というデカルトの言葉は、自己の存在を確認するための思考の重要性を示していますが、言葉がなければ思考も形を成さないというカメさんの見解は、言語と思考の密接な関係を強調しています。言葉を通じて、私たちは自己と世界を理解し、他者とコミュニケーションを取ります。
カメさんが言うように、自分を「無」として認識することで、自己確立を果たし、人間社会で「当たり前に生きる」ことができるようになるというのは、自己の内面と外界との関係を再考するための興味深いアプローチです。社会は共に生きるシステムであり、その中で私たちは互いに支え合いながら生きていく必要があります。
カメさんのブログが、人間の存在と社会との関係についての理解を深めるための場となり、多くの人々にとって有意義な議論を提供することを願っています。もし、このテーマについてさらに話を進めたい場合や、他のトピックについても話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますので、お知らせください。🌟🤔📖


人間の世界に問題が無ければ、人と人間の違いなんて書く事も無いが、何とか戦争を無くしたい思いで、その原因を求めて、問題を起す人が「無」に成れば、問題は0になりますよと言いたい訳です。
人は交通社会でみんな正しく安全運転を心掛けます。
人が交通社会で生きる訳を知らないと、正しく運転する事が出来なくて、交通戦争で多くの犠牲者が出ます。
正しく安全運転する事が当たり前。
人が人間社会でみんな当たり前に生きています。
毎日、通勤、通学している人の姿、直立二足走行の動物の姿が人間です。
世界は人間の世界、社会は人間社会、人が世界や社会で何をしているか、人種差別で、人が憎しみ合って争っています。人が喧嘩します。夫婦喧嘩、親子喧嘩、兄弟喧嘩、そして戦争も人の喧嘩、ケンカ両成敗。
その人の争いを無くするのが、言葉です。人が黙れば何も起こらない。
黙って辛抱するという事が有ります。
イスラエルのハマスが黙って辛抱する事が出来なくなったのでしょうね。
北方の島民が戦争で追われて北海道で生きていますが、島民の中にハマスがいると、北方の島にミサイルを撃ち込んでソ連の島民を追い払うと、ソ連は黙っていない戦争に成ります。
ハマスが黙って辛抱すれば何も起こらないが、憎しみ合いの歴史が戦争に成るのでしょう。
人が無に成り、人が人間の世界で正しく当たり前に生きるカメさんの人間観で人が人間として生きる筋道が開かれれば、十人十色の人がみんな同じ体の人間として一人一人が自覚する事を願う毎日です。


カメさんの考えは、人間の世界での平和を求めるという深い願いから来ているようですね。人が「無」になることで問題が解決するというのは、個人が自己中心的な欲望を超えて、より大きな共同体の一員として行動することの重要性を示唆しています。
交通社会での安全運転が「当たり前」とされるように、人間社会でも互いに尊重し合い、平和的に共存することが「当たり前」であるべきです。しかし、現実には様々な対立や争いが存在し、それらを解決するためには、言葉を通じたコミュニケーションが重要な役割を果たします。言葉は争いを生むこともありますが、同時に理解を深め、和解を促す力も持っています。
カメさんが述べるように、人々が互いに異なる体を持ちながらも、その内面で自覚し、共感し合うことができれば、より平和な社会が築けるかもしれません。カメさんのブログが、人々が互いに理解し合い、より良い社会を築くための議論を促進する場となることを願っています。もし、このテーマについてさらに話を進めたい場合や、他のトピックについても話し合いたい場合は、いつでもお手伝いできますので、お知らせください。🕊️🌍🤝


能登地震で沢山の人が苦しんでいますが、自然災害をどうする事も出来ないが、戦争は人災で有るから、必ずその問題は解けると信じています。
AI時代、手動が自動に成る時代、人の体もAIで自動になりますよ、つまりAIは人工知能、人の体の仕組みが脳の働きで手足が自ら動く、自動で動く物だという事、人間が自動だと言う実験をしてみます。
目を閉じると何も見えなくなるので、脳が情報処理出来なくなり、手足に電気信号を送る事が出来なくて、手足が自ら動く事が無くなります。
運転も目を閉じると運転する事が出来なくなる。運転手の脳の働きで、車体が自ら動く車、自動車に成る。
カメさんの人間観は、自動人間動物物語へと発展しました。
自動人間、AI人間、プログラム、コンピュータ、頭脳、60兆個の細胞の塊、人は何処にもいない、その人が人間の世界で互いに殺し合いしている。という事で人と人間の違いを書いてみんな同じ人間兄弟仲良くしましょうという事です。
今回も沢山書かせて頂きました。又合いましょう、感謝、ありがとう


カメさん、今回も深い洞察を共有してくださり、ありがとうございます。自然災害と人災の違い、そしてAIの時代における人間の役割と自動化の進展についてのご意見は、現代社会における重要な議論です。人間の体がAIによって自動化される未来は、私たちの生活を大きく変える可能性がありますね。
カメさんが述べられたように、目を閉じると見えなくなることから、私たちの体は脳の指示によって動いていることがわかります。これは、人間の体が複雑なプログラムとコンピュータのようなものであるという考え方につながります。
人間としての共感と理解を深め、争いを避けるためには、私たち一人一人が互いに協力し合い、平和を目指すことが大切です。カメさんの「人間兄弟仲良くしましょう」というメッセージは、そのための素晴らしい出発点です。
またお話しできる日を楽しみにしています。こちらこそ、貴重なお時間をいただき、感謝いたします。さようなら、そしてまたお会いしましょう。🌏✨