4.3.4 E 戦後日本哲学の条件   付論 いわゆる「革命主義」の内実について | 竹内芳郎の思想

4.3.4 E 戦後日本哲学の条件   付論 いわゆる「革命主義」の内実について

 ⑪「戦後日本哲学の条件――中村雄二郎氏に答える」(1987年2月)は、上記の⑩「ポスト=モダンにおける知の陥穽」への中村雄二郎からの反論(『世界』誌1987年1月号)に対して、それへの再批判として同誌の同年3月号に掲載されたものである。また、その付論「いわゆる『革命主義』の内実について――西部邁氏に答える」(1989年1月)は、同じく上記論文への西部邁の批判(『東京新聞』1986年10月31日付夕刊「論壇時評」)に対して、それへの反論として書かれたものである。この後者を前者と併せて一つの論文のなかで論じなかったことについては、「論旨がここで展開してきた議論とはかなり異質な次元にまで及ばねばなるまいと判断した」からだとされている。

 まず、「戦後日本哲学の条件――中村雄二郎氏に答える」から見てゆこう。

 その序論部分では、現代の日本の論壇から真の意味での「討論的対話」=論争がなくなってしまったことへの危惧と、そのようななかで簡略なものでありながらも中村雄二郎から反論が呈示されたことへの感謝が述べられている(ただし、この再批判に対して中村からの反応はまったくなかったという)。

 本論部分では、中村からの反論が次の二点にまとめられ、それに対して具体的な反論がなされている。

 ①「西田哲学のなかで生かすべき部分とそうでない部分とをあきらかにしようとした氏の努力をわたしがまったく無視してしまったこと。」

 ②「わたしの異議申し立ては『単なる感情的批判やイデオロギー(的)批判』にすぎず、こうしたものでは『かつて日本の多くの若者たちの心を深くとらえた西田哲学と対質することなどできないはずである』ということ。」

 これらの中村の反論が説得力をもたぬことを示したうえで、竹内は、「戦後わたしが日本哲学の存立条件を以上のように規定したについては、戦時中の西田哲学の在りようへの反省に加えて、マルクス主義からの影響もまた決定的であった」とし、次のように断じている。「ここではっきり断言しておかねばならぬことは、その後の現実の歴史過程によって史的唯物論の諸定式(『経済学批判』序言に見られるような)がどれほど無効化され風化されようとも、理論や思想の真の意味はその歴史的・社会的実践の場――私のいわゆる<社会的身体性>の次元――でこそ了解可能となるという、史的唯物論の認識論的=存在論的基礎了解のみは、今日もなお依然として有効であり、そのことまでも忘却してしまったなら、どんな思想も理論も確実にマルクス主義以前の地点にまで再転落するほかはあるまい、という一事だ」、と。

 最後に、竹内自身も、西田哲学の理論内容のすべてを拒否すべきだと考えているわけではないこと(むしろ、『サルトル哲学入門』以来の彼の哲学(現象学)研究においては、デカルトの「コギトー」と西田の「純粋経験」との差異に関するProblematikが踏まえられていたこと)、西田哲学がその政治社会的痴呆性を明確に認識し、それを確実にのりこえ得た別の理論パラダイムのなかでそれらを流用するならば、その理論的成果を十分に活かしてゆけるであろうこと、を強調したうえで、にもかかわらず、西田の「純粋経験」がまったく<抵抗の精神>を欠如させた自閉的なimmobilismeにおちいりがちであることを強く戒めている。

 次に、付論「いわゆる『革命主義』の内実について――西部邁氏に答える」について簡単に触れておくと、ここで問題とされているのは、西部の以下のような論評である。

 ①「近代西欧出自の普遍的イデオロギーをば土着化をつうじて真に普遍化することで闘う」と言うが、「土着化」とは何のことか、説明されていない。

 ②「政府でなく人民たちとの交流をつうじて……の底辺国際主義」の提唱にしても、第三世界の人民への無条件的賛美の域を出るものではない。

 ③第三世界における「解放の神学」を金科玉条とするのは頂けない。

 ④「私ならば、パンパンにも天皇にも、というよりもそのような極限的な、あるいは土着的な、存在の仕方においてこそ、竹内氏のいう<具体的普遍>がほのみえてくるのだ、といったような書き方をしたいところである」。

 以上を要するに、「この論文における命題的な主張のほとんどすべてについて、私は同意する」ものであるが、「しかし竹内氏の、民衆信仰というか、解放願望というか、ともかくあけすけの革命主義に私はなじめない」、と。

 この付論はごくごく短いものであるが、以上の四点の批判にたいして、説得力のあるていねいな反論がなされている。そして最後に、「氏がここで抽象的に呈示している方向性の具体化は、まさに戦後わが自民党政権が一貫してとってきた政策そのものであり、であればこそ中曾根前首相は、一方では『日本はアメリカ合衆国のための不沈空母たれ』と叫び(パンパン的性格)、他方では『天皇陛下は世界の大空に輝く太陽のごときお方だ』と叫んでいた(天皇教)のではないか? 西部氏は、安保闘争以後、まさにそういう自民党政権にこそひたすら身をすり寄せてきたようだが、そのような態度が、どうして私の提起した問題へのもうひとつの解決策となり得るのか――不可解なのは私ひとりではないはずである。なお最後に一言しておけば、氏が『私にはなじめない』とする私の『あけすけの革命主義』なるものは、旧左翼のそれとも新左翼セクトのそれともまったく異次元のラディカリズムであること、これは以上の論述からもすでにあきらかなはずで、いまさら断るまでもないであろう」、と述べている。