4.3.4 D ポスト=モダンにおける知の陥穽 | 竹内芳郎の思想

4.3.4 D ポスト=モダンにおける知の陥穽

 ⑩「ポスト=モダンにおける知の陥穽」(1986年9月)は、岩波『世界』誌1986年11月号に掲載された論文であり、これも本書収録にさいして多少の加筆がおこなわれたという。

 まずその序論部分では、日本人の「外国という<他者>にたいする非原本的な在り方」を指摘し、「いかに愚かしくもまた徒労に思えようとも、この宿痾にたいしてくりかえし執拗に闘いを挑む以外に、この国の思想家のなすべき仕事はないのかもしれない」と述べて、この論文の目的が、前稿⑨「新たな<近代の超克>論のための予備的考察」をさらに発展させようとしたものであるとしている。

 そして、続く本論部分では、「今日わが国の知的世界に跋扈しているポスト=モダンの潮流には、どうにも我慢のならない禍々しさを感じとらずにはいられない」と語って、その理由を「表層から深層にむけて」考察してゆく、としている。

 第一の論点は、わが国におけるポスト=モダン思想の大半が、欧米において彼ら自身の自己批判としてうち出された思想のオウム返しでしかないこと、したがって、「日本知識人は欧米から近代を模倣したと同時にこんどはまた近代の超克論をも模倣しているだけだということ、しかもそのことによって、彼の地では深刻な自己批判だったものがこの地ではいとも安易な自己肯定にまですっかり変質してしまい、しかもそのことに無自覚でいる、ということ」である。そして、モンテーニュと梅原猛、BBCと日本のテレビ局、「解放の神学」と日本の仏教教団(創価学会)とを比較しながら、日本人の無思想性をきびしく批判し、そのような彼の哲学を方向づけたものとして、K・レーヴィットの言葉を長く引用している。

 第二の論点は、「近代の超克にさいして、欧米の近代と日本の近代とを等置して立論することがどの程度まで許されるのか」という問題であり、これは、わが国でも50年代には精力的に問題にされていたにもかかわらず、それを無視して安易にポスト=モダン思潮に身をゆだねることの弊害を指摘している。具体的には、①環境汚染と自然破壊、②「動物実験」、③教育現場での「いじめ」、④金権民主主義、⑤第三世界への「経済援助」という五つの問題について、いかに日本近代が「進んで」いて、欧米近代が「遅れて」いるかを明らかにし、このような彼我の相違にまったく無知なままポスト=モダンを論じる思想家たちを厳しく指弾している。

 第三の論点は、現代日本のポスト=モダン思想の致命的欠陥は、「それが観念のうえだけでの遊戯におわって現実との対決を完全に忘却している」ということである。これは、戦時の「近代の超克」座談会にも見られた根本的な欠陥であるが、あのような知的頽廃を回避するためには、「ポスト=モダン思潮にぞくする思想家たちは、自分たちの主張の背後で現実に進行している歴史的諸過程にたいして、ぜひとも透徹した認識をもつ義務があるのだ」、というわけだ。そうして、戦時中の近代超克論と今日のポスト=モダン論の時代背景の共通性を指摘したうえで、いずれの場合においても、そこで称揚されるようになった日本の独自的価値なるものは、実は近代世界を支配してきた<競争原理>を価値尺度としていること、そうした現実との対決姿勢の欠如は、中曽根政権に群がる知識人たち(梅原猛、今西錦司、梅棹忠夫、桑原武夫ら)のふるまいや、中村雄二郎をはじめとする西田哲学の復権の動きにも明らかであること、ポスト=モダン思潮における「差異の戯れ」なるものも、実はポスト=産業資本主義の特性の忠実な反映にすぎないこと、等々が論じられている。

 最後に、「われわれがいまこの日本という場において近代を超えるにはどうしたらよいか」という問いにたいして、二つの総括的な命題が示され、それぞれに具体的な解説がなされている。その二つの命題とは、以下のとおり――①「近代にたいして前近代または原始を、西洋にたいして東洋または日本を対置するというような安直な仕方では、すくなくともわが国では近代はのり超えられぬばかりか、かえってますます近代の病毒を助長するだけだ」、②「近代を超えるためには、近代が一般化したその普遍的原理を、近代とか西欧とかの制約を完全にのり超えるまでに真に普遍化する以外に途はなく、そのための不可欠の媒体としてこそ、前近代とか非西欧とかが貴重な意義をもってくるのだ」。そして、次のような文章で本稿は閉じられている。「自国の置かれた場から具体的に要請されてくる以上のような思想姿勢は、おなじく近代思想を超える途をもとめながらも、今日この国で流行しているポスト=モダンの軽薄な思潮とは、きっぱりと絶縁することを指示する。単なる西欧大国の流行思想の猿まねと、それによる自国の伝統的思想風土の甘ったるい自己肯定とは、現実からの要請に応えるどころかかえってそれをはぐらかし、私たちをますます近代の汚辱のなかに沈めもどすこと必至だからである。」