4.3.4 B 文化の変革   付論 <科学批判>の基本的態度について | 竹内芳郎の思想

4.3.4 B 文化の変革   付論 <科学批判>の基本的態度について

 ⑧「文化の変革」(1985年1月)は、新岩波講座『哲学』第十二巻(1986年1月刊)に収載された論文であり、本書への収録にさいして多少の加筆がおこなわれている。その付論「<科学批判>の基本的態度について」(1988年12月)は、本論で主題化されている科学批判論について、1988年刊の対談集『ネオ・アナーキズムと科学批判』(柴谷篤弘・吉岡斉・桂愛景・江口幹)での議論を踏まえながら再論したものである。

 「文化の変革」第一章「はじめに――変革の不可能性と不可欠性」では、まず<総中流意識>に象徴されるような<保守>意識の本質を「己れの不安を表明するいまひとつの仕方でしかない」のではないかと指摘したうえで、その背景をなす事実として、第一に「現状を打破する明瞭な指針の不在」、第二に「近代文明における人間欲望の体制への馴致化」という二つを挙げる。そして、今日における変革の不可欠性と不可能性を踏まえながらも、「たとえ破滅するにしても、抵抗しながら破滅しようではないか」という呼びかけに、人類の唯一の精神の証しを見ようとしている。

 第二章「近代科学技術の本質的性格」では、「現代社会における統合的権威を聖化する座についた」近代科学技術の在り方が探究されている。そして、近代科学技術の本質として、第一に、企業や国家の営利活動・軍事活動のために奉仕する<巨大科学>への変貌による科学自身の自己否定、第二に、巨大テクノロジー体制のもとでの民主主義の崩壊、が指摘され、そうした科学の変貌の背景には、近代科学に固有の認識論的構造――<神の視点>からする<上空飛翔>的認識――があること、科学内部におけるそうした認識論的構造の動揺も具体的経験の場での科学の在りように何の変化もあたえていないこと、が明らかにされる。

 第三章「新たな科学技術の方向性」では、<生活世界>の場における新たな科学技術の在りようとして、既成のテクノロジーとの対比におけるその「型」を特徴づけようとしている。それは『国家と文明』以降くりかえし主張されてきたところであるが、(1)世界=内=科学、(2)<等身大の科学>=<人民による科学>、(3)<生態学的テクノロジー>=<ソフト・テクノロジー>の復権、(4)生命論的宇宙観の復権、の四つである。そして、それらがユートピア的にすぎるという批判にたいしは、「そもそもこの産業社会の価値観によって魂の底まで馴致されてしまった現代人の目にユートピアと映じないようなものは、なんら革新的なものではない」と断じている。さらに、このような方向性に関する三つの留意点として、①それは「自然に帰れ」といった主張と同一視されるべきではならない、②この方向性は単純な東洋精神の復興などではあり得ない、③抑圧的なテクノロジーからの解放闘争はかならず同時に抑圧的な経済・政治体制からの解放闘争でなければならない、と述べられている。

 第四章「<競争社会>とその超克の要」では、このような科学技術によって支配された現代社会の一般的性格としての<競争原理>が批判されている。とりわけここでは、現代の<競争社会>における隠蔽された形態のもとでの差別の再生産が剔抉され、「差異をその具体的差異の相のもとで積極的に評価することのできるような社会」、「<競争原理>でなく<連帯原理>に依拠した社会」をめざすような、新たな変革路線を要請している。

 第五章「フェミニズム運動と文化変革」では、当時注目を集めていたフェミニズム運動と文化変革との関係について叙述されている。まず、性差別の元兇が考察され、それは「社会制度的なものであるよりはむしろそれに先立って記号学的なものであ」るとし、⑥「暴力考――R・ジラール『暴力と聖なるもの』他批判」第Ⅵ章において、人間的暴力の起源に見ていた二つの事態――①死の危険を伴うゲームとしての狩猟の記号学的幻想過程と、その背後にある人間に固有の死の会得と表象化という事態、②あらゆる生物のなかでヒトだけが<強姦する動物>であり、文化の起源には強姦があったという事態――をここでも指摘している。そのうえで、こうした<男性原理>の支配を打破するためには、結局は男性原理の強化に奉仕するようなやり方ではなく、また、男性原理と相反的相補性の関係を作っているかぎりでの旧女性原理の即自的な肯定によってではなく、<メタ=女性原理>の復権をこそめざすべきこと、社会制度的地平では男の交換価値生産労働と女の使用価値生産労働との分裂を(「市場の論理」=「労働力商品化」そのものの廃棄をつうじて)「社会的使用価値」とでも言うべき新たな同質の労働にまで止揚すべきこと、が主張されている。

 付論「<科学批判>の基本的態度について」では、『ネオ・アナーキズムと科学批判』のなかで吉岡斉が提示している<科学批判>の三つの型――①観念的な世界観批判、②制度論的・政治経済学的な科学批判、③科学内部における方法論的科学批判――に関して、この三つを不可分のものとして連結させるべきことを主張し、自らのそのような科学批判の原点となった1963年の講演「人間の全体性について」(『イデオロギーの復興』所収)を引用している。