4.3.3 E 暴力考――R・ジラール『暴力と聖なるもの』他批判 | 竹内芳郎の思想

4.3.3 E 暴力考――R・ジラール『暴力と聖なるもの』他批判

 ⑥「暴力考――R・ジラール『暴力と聖なるもの』他批判」(1983年6月)は、『思想』誌1983年8月号に掲載された書評である。

 まず序論部分では、マルクスとガンディーによる人類史上最も自覚的な<暴力>超克の企てが、ともに惨憺たる結果におわったのをすでに見届けてしまった現代の私たちは、今後一体どうしたらよいのか、と問うたうえで、この書評の目的を、R・ジラールの『暴力と聖なるもの』がそのような課題に正しく答えるものであるかどうかを批判検討するものだ、と述べている。

 第Ⅰ章では、人間社会における暴力の発生の基盤として考えられてきた<稀少性>概念について論じられており、そうした旧来の考え方にたいして、ジラールが暴力の発生を<模倣の欲望>にもとめたことの意義が検討されている。そして、ジラールが人間的欲望の社会的性格に照明をあたえたことを評価しつつも、人間存在の自然的制約としての基礎的な稀少性を無視した立論の一面性が批判されている。

 第Ⅱ章では、<未開社会>は本質的に暴力社会であるのかという問題が論じられ、そのようなジラールの暴力的な<未開社会>像が、同様の立場に立つP・クラストルのそれとともに検討されている。ここでは、ジラールとクラストルが、逆の論理をもちいながらも、<未開社会>とは暴力をつうじて<単一の全体性>または<満場一致>を実現しようとする暴力社会だとしている点を指摘したのち、そのような<未開社会>像は非現実的であること、<未開社会>における暴力性は、社会形成原理としての<相互性>原理が内包する暴力性を顕在化させることによって説明されるべきで、それの外部からあらたに暴力性を導入するような仕方によって説明されるべきではないこと、<未開社会>はクラストルが言うような<戦争に向う社会>ではなく、逆にM・サーリンズの言う<戦争と戦う社会>だと考えるべきこと、ジラールの想定する<満場一致>なるものが実現されるのは、国家出現以後の差別構造(<弱い者いじめ>の原理)をもった社会においてであること、S・ロバーツが言うように権力者なき<未開社会>の常態は、むしろ第三者を外部から呼び込むことによって紛争解決に当るものであること、と批判している。

 第Ⅲ章では、ジラールが<国家>出現の以前以後における宗教の質差を無視し、すでに初期国家を形成した古代ユダヤおよび古代ギリシャの事例を主たる論拠として、「贖罪の生贄こそ一切の宗教、一切の文化的秩序の起源であり、一切の象徴的思考の基盤である」といった結論へと突進してしまっている点を、多くの宗教学や民俗学、人類学の成果を引用しながら厳しく批判している。そして、人身御供にきわまる生贄供犠が宗教の中核を占めるのは、<国家(民族)宗教>のなかだけであって、贖罪の生贄は、暴力一般とではなく、直接的には暴力の歴史的一形態としての<権力>との連関のもとでその記号学的意味作用を解読されるべきものだ、と主張している。

 第Ⅳ章では、ジラールにおける<差異>と<差別>との質差への無理解を批判している。すなわち、差異=平和、無差異=暴力といった近代的平等主義を単に裏返しにしただけの等式では、歴史における<制度化された暴力>と<対抗暴力>とのダイナミックスは何ひとつ把えられないのであり、近代的平等主義者を非難しながら差異と差別とを混同してしまっている点では、ジラールもまた彼らと一つ穴の狢なのだ、というわけだ。

 第Ⅴ章では、以上のようなジラールの暴力論の欠陥と結びついている、彼の荒唐無稽なディオニュソス観――ディオニュソス神に暴力以外の本質をみとめないディオニュソス観――が批判されている。

 第Ⅵ章は、本稿執筆後に読んだとされる『世の初めから隠されていること』と『身代りの山羊』におけるジラールの議論を踏まえての補論である。ここで論じられているのは、第一に、<横取りの模倣>が暴力と<供犠>の起源にあるとする拡大されたジラールの仮説であり、第二に、ジラールの理論形成の根元には深いキリスト教信仰があったという事実である。

 第一の論点については、その理論的な難点を指摘したうえで、人間的暴力の原初形態を突きとめるためには、①死の危険を伴うゲームとしての狩猟の記号学的幻想過程と、その背後にある人間に固有の死の会得と表象化という事態、②あらゆる生物のなかでヒトだけが<強姦する動物>であり、文化の起源には強姦があったという事態、に注目する必要があるとしている。

 第二の論点については、福音書における絶対的な非暴力の思想と実践がことごとく失敗に帰してしまったことを知る現代人としては、単に非暴力の主張を屹立させることによって理論的に裨益するところはないだろう、と述べたうえで、①教祖イエスがみずからを生贄としたという福音書解釈にたいするジラールのはげしい反撥への疑問、②流血供犠の否定はあらゆる普遍宗教にみとめられる特徴であるにもかかわらず、それをあたかもキリスト教だけの偉業であるかのように論じていることへの疑問、③歴史上のキリスト教が福音書の真精神を裏切って迫害的暴力宗教に逆転したことについての、メカニズムの解明とそれを抑止する方策の探求とを怠っていることへの批判、が提示されている。