4.3.3 D <産業社会>超克の課題とマルクス | 竹内芳郎の思想

4.3.3 D <産業社会>超克の課題とマルクス

 ⑤「<産業社会>超克の課題とマルクス――マルクス死後一〇〇年を記念して」(1982年11月)は、『別冊経済セミナー』誌1983年2月「マルクス死後一〇〇年」特集号に掲載された論文である。

 まず序論部分では、マルクス主義が<産業社会>の枠内の思想でしかなかったことを指摘しつつ、本稿の目的が示される。すなわち、問題は、ただ観念のうえだけでマルクス思想が近代的地平を超えている所以を力説することでも、マルクス主義が世界の変革運動におよぼしてきた害悪に目を覆ったまま、そこにまだ有効なものが残っていることを顕彰してみせることでもなく、「現代のあらたな変革の課題それ自体がマルクス思想の或る側面を不可欠の武器として要請している所以のものをあきらかにすることなのだ」、と。

 第Ⅰ章では、旧マルクス主義の生産力主義を批判したうえで、近代的テクノロジーを超える<もうひとつのテクノロジー>が模索されている。つまり、近代科学とは工業化革命と手を携えてきたことから、農業生産とは異なって人間中心主義的な態度に支配されてきたのであり、それゆえにまた本質的に自然環境破壊へと向かうものであることを指摘し、その克服の方向性として、①人間至上主義の打破、②全体連関のうえに立った生態学的テクノロジーへの志向、③ソフト・テクノロジーへの志向、④地域分権的テクノロジーへの志向、が提唱されている。

 第Ⅱ章では、以上のようなテクノロジーの変革はかならず社会変革を必要とすることを指摘し、旧来のエコロジストや脱=産業社会論者におけるこの点の認識の不十分さを批判している。そして、この点においてこそ、科学技術の存在被拘束性を明らかにし得る史的唯物論の現代的意義があるはずだと主張し、「このようなかたちでマルクス主義者は、エコロジストたちと緊密な連帯を形成してゆくことができると、私は考える」、と言う。

 第Ⅲ章では、ポスト=産業社会的な資本制生産様式が可能であるかという問題について、あたかもそれが可能であるかのような議論を展開しているA・トフラー『第三の波』の議論が検討されている。そして、①反=産業社会のイメイジを近代科学技術の直線的な高度化の延長上に築いていることの欺瞞性と無責任性、②<国家と文明>の確立と結びついている金属器革命の歴史的意味を無視したテクノロジー中心主義的な政治社会論、が批判されている。

 第Ⅳ章では、トフラーと同様に、脱=産業社会論と反=資本主義論をリンクさせることを回避した、A・ゴルツの『プロレタリアよさようなら、社会主義を超えて』が検討されている。ここでも、ゴルツの称揚する脱=産業社会的な自律的労働なるものが、産業社会で開発された近代的テクノロジーの高度化を前提とし、それの継続とさらなる高度化とに支えられてはじめて存在を許容されることを明らかにし、その欺瞞性を批判している。そして、総じてこの種の脱=産業社会論に欠落しているものは、ブルジョア社会において環境破壊の近代テクノロジーを推進している元兇が大企業と国家権力である、という自明の事実にたいする認識である、と断じている。ただ、その一方で、ゴルツのごとき明敏な理論家でさえもがこのような踏み外しをおこなわざるを得なかった、その厳しい現実認識にもふかい共感を示したうえで、それでもなお、別の理論化の道を呈示しようとしている。第一に、近代プロレタリアートの革命性の欠如についてはマルクス主義の伝統理論の方が誤っていたこと、第二に、労働者自主管理は原理的に不可能なのではなく、その困難さは産業社会の近代的テクノロジーの支配下でおこなわれていることによるのだということ、第三に、小規模生産を志向するエコロジー運動の未来は保証しがたいが、すくなくとも中国の<文化大革命>の失敗は、その内容そのものよりも、その権力主義的な方法にあったと考えられること。最後に、産業社会の超克は資本制生産様式の廃棄を不可欠の条件とすること、資本主義社会における現象の変貌は本質の変質を意味するものではなく、悪名高い<窮乏化>法則でさえもかたちを変えつつ依然として貫徹していることを指摘し、次のような文章で擱筆されている――「事情かくのごとくだとするならば、たとい変革のパラダイムそれ自体がいまや大きく変革されねばならぬときが到来しているとしても、その変革されたパラダイムそのもののなかに、資本制生産様式をめぐるマルクスの古典的諸分析が埋めこまれ、あらたなかたちで活用されるのでなければ、マルクスを葬ったと思うちょうどその分だけ、マルクス以前に舞いもどってしまう危険があるのではないか。これがマルクス死後ちょうど百年を経た今日における、私の率直な感想なのである。」