4.3,3 B 現象学的言用論のためのエスキース | 竹内芳郎の思想

4.3,3 B 現象学的言用論のためのエスキース

 ③「現象学的言用論のためのエスキース――アーペル、ハーバマス批判に沿って」(1985年5月)は、この論文集『具体的経験の哲学』のために書き下ろしたものである。

 その序論部分では、本稿の目的が述べられており、それは、上述の②「現象学・構造主義・ポスト=構造主義」の第Ⅰ章第七節における二つの指摘――現象学の真理論への貢献としての相互主観性の観点の導入と、相互主観性の物神化を回避するための<対話>の重要性――をもうすこし掘り下げて考察することであり、同時に、『言語・その解体と創造』増補版の「あとがき」で予告した、<開かれたコギトー>と以=言辞行為とを接合する言語理論の現象学的基礎づけの作業を遂行することだ、とされている。


 第Ⅰ章では、まず本論文の意図と性格を述べたうえで、アーペルとハーバマスの言語理論が概観される。まずアーペルの哲学について、①いかなる懐疑や批判をも可能にする、それ自体は批判し得ぬ条件としての<超越論的言用論的次元>の開示、②コギトーの問題を発話の次元にまで還元することにたいする批判への反論、③超越論的言用論における理論的理性と実践的理性との合一、といった議論が解説される。続いて、ハーバマスにおけるアーペル理論の深化が解説され、コミュニケーションにおけるあらゆる可能な相互了解のための普遍的諸条件を追構成しようとする彼の<普遍的言用論>が、社会における人間関係の最も基礎的な倫理的規範を開示し、かくして認識論がそのまま同時に社会の批判理論ともなる、その理路を記述している。


 第Ⅱ章では、以上のようなアーペルとハーバマスの理論にたいしてなされ得る批判や疑問が検討されている。

 第一に、W・シュルツによる「非現実的にすぎる」との批判が採り上げられる。そして、そうした批判については、彼らは「非現実的であることそのことに真の現実的意味を見いだしている」がゆえに、妥当なものではないとする。「彼らのいわゆる<理想的発話状況>なるものは、カント的意味での<超越論的仮象>にも比すべきもので、たしかに現実に実現可能なものと主張されれば単なる仮象にすぎないが、にもかかわらずあらゆる談話に必然に伴って談話を談話として可能ならしめる超越論的想定だ、ということになるわけである」、と。さらに、このように「非現実性自体に現実的意味を付加する論法」は、ハーバマスにおける真理の<合意説>にも見いだされるとして、彼の超越論的<妥当性>が、理想化された他者を相手にすることで、例の共同主観性の物神化に見られるようなコンフォミズムを回避するものであることが示される。

 第二に、「言語論に超越論的問題定立が必要なのか」という疑問が検討されている。そして、この、言語理論としての言用論と哲学との接点の領野をめぐっては、「アーペル、ハーバマス両者に共通するひとつの根本的な弱点として、あまりに性急な規範主義的偏向とでもいうべきもの」があると言う。それは、具体的には、①そもそも言用論の意義は、言語のコンテクスト=内=存在の自覚にあったはずなのに、彼らはコンテクストへの考察をほとんど等閑に付したまま、発話行為における普遍的規範の樹立に向ったために、発話行為の多様性を捨象してしまったのみならず、言語の階層性にも盲目となった、②理論言語の発話場からの超越も、それが独自の発話場の自己形成を必要としているかぎりでは依然としてコンテクストに依存しているのに、この面への配慮を欠いた彼らの議論にあっては、理論言語としての論証的討論における規範の正当化はあらゆるコンテクストから自由であり得るかのようであり、近代的なロゴス中心主義の狭隘さを克服できているとは思えない、ということである。


 第Ⅲ章では、アーペルやハーバマスの言用論の規範主義的または論理主義的偏向の背景をなす彼らの言語観=言語至上主義的伝統を批判しつつ、竹内芳郎自身の<現象学的言用論>の方向性がスケッチされている。

 第一節では、J・L・オースティンにはじまる言用論の意義として、①チョムスキーの<言語能力>の下により根柢的な<コミュニケーション能力>を見いだしたこと、②言語を社会的コミュニケーションの場での話者と聴者との相互主観的な行為のなかで把える道を拓いたこと、が指摘される。

 第二節では、<言語能力>を<コミュニケーション能力>にまで拡げることは、言語以外によるコミュニケーションの諸形態をも視野におさめて言用論を展開すべきであることを意味するはずだとして、それを一切排除してしまったハーバマスらの言語理論を、「現代哲学を依然として支配している言語至上主義に汚染された」ものとして批判している。「なるほど、メタ言語行使としての論証的討論において、それら副=言語的諸因子がことごとく言語化されねばならぬことは、ハーバマスの言うとおりだとしても、その当然の倫理的要請をもってしても、言用論がそうした諸因子をはじめから理論射程の圏外に置くことを正当化することはできないのである。」

 第三節では、言語的コミュニケーションを前言語的コミュニケーションの過程のなかに置きなおしてみる必要があると同時に、また逆に、後者とは異なる前者の固有性を明確に把握しておく必要があるとして、次の二点が主張されている。第一に、言語論は、言語に本質的な虚偽性と日常言語によるコミュニケーションの挫折とを踏まえたものでなくてはならないこと(ここにメタ言語としての文学言語の意義があること)。第二に、人と人との<対話>には完全な意味での<合意>もまた原理的にあり得ないのであり、他者との差異性の確認こそが真に生産的な対話の第一の条件であることを、明確に承認しなければならないということ(ハーバマスの<理想化された他者>なる概念ではまだまだ不十分であること、絶対的真理の保持者なぞ誰もいない社会こそ真に解放された社会である(E・モラン)ということ)。

 第四節では、発話とコギトーとの関係が主題化され、次の三点が述べられている。①人生における一切との出会いを可能にする具体的経験としてのコギトー=<黙せるコギトー>は、認識の明証性などに関わるコギトーのようにつねに言語ゲームと織り合わさっているはずはなく、それを看過したところにアーペルらのロゴス中心主義が胚胎することとなった。②この黙せるコギトーは相互主観的世界に生きているにせよ、他者とのあいだで完全に交換可能となることはなく、であればこそ、発話の次元で、他者との<対話>が必要ともなればまた可能ともなる。③発話の次元に姿をあらわすコギトーにおける<私>とは、具体的には、以=言辞行為の主語なのであるが、真偽が問題とされるのは発話のなかにふくまれた命題についてだけである以上、そのコギトーは、黙せるコギトーの次元のみならず発話の次元でも、それ自体としてはなんら真偽の保証をなすものではなく、一切の真理性の存立基盤でしかない。

 第五節では、発話行為の類型分類についての留意点が列挙されている。①ヤコブソンのいわゆる交際的発話の重要性、②言語階層論の不可欠性、③ディスコミュニケーションや<逸脱的>な発話現象への注目、④制度的発話と他の対話形性的発話との峻別の必要性、⑤通=言辞行為についての考察の不可欠性。