昨日、耳かきのやつの事件の判決が下されました。
無期懲役。
裁判員制度で初の死刑求刑の結末がこれです。
死刑については前にも少し書きましたが、
もうちょっと書き足りなかったことを書いてみます。
昨日、この裁判を伝えている
テレビの中からしか情報を得ていないんで、
足りない部分もあるかもしれないと先に断っておきます。
裁判員が話していた内容がものすごく印象的でした。
「裁判員をやる前までは死刑が当然だと思っていたが
実際に裁判員になるとそうではないとわかった」
「裁判の初めの頃の被告の態度を見て死刑だと思っていたが
裁判が進むにつれ態度が変わり反省しているのが伝わってきた」
……若干違うかもしれませんがこんな感じです。
これって、前者に関しては、
裁判官たちと過去の判例や判決の考え方なんかも
いろいろと話をしたと思うんですが、
そういうことも含めていろいろ話し合う中で、
「そもそもの考え方が変わってきた」
んじゃないかなーと思うんですよね。
後者に関しては、
被告の態度が反省したことによって心が動かされてる。
同じ人の言葉ではないかもしれませんが、
裁判員の言葉として
「感情に流されずに冷静に判断したい」
みたいなことが報道されてました。
おもいっきり被告の「態度の変化」によって
感情に流されちゃってる気がするんですけど。
まぁ、「感情に流されず」というのは
遺族感情のことを指してそうな気がしますが、
まさか加害者側の感情とは……。
あと、いつものごとく
「死刑にしなければいけないほどの殺し方ではない」
とか
「これを胸に留めしっかり反省して生きてほしい」
とか。
えーと……
遺族(本人も)にとっては
殺し方なんてなんら関係ないし、
反省しようがしまいが
死んだ人は帰ってこんのじゃボケェ!!
って感じですけど。
愛する家族が殺された。
その事実だけですよ。
好きだったけどフラれて腹いせに殺した。
おばあちゃんもろとも。
——ってことですよね?
完全なる自分の勘違いで逆恨みで。
これを反省して、それを見守る理由がわからない。
「犯行時、被告は正常な判断が出来なかった」
とかよく聞きますけど、
殺すくらいだから、正常じゃないに決まってる。
どんなに反省しても、
またいずれ同じようなケースがあったら
また同じように殺す可能性の方が、
殺さない可能性よりもはるかに高いはずですよ。
人間、根本から変わることなんてそうそうないですって。
とくに1回実績があるんならなおさら。
正直、部外者のぼくでも
「被告の今後の人生」になんて興味ないのに
遺族にとっては反省なんかなんの意味もないわけです。
逆に「反省するくらいなら殺すな」と。
今回、殺した側=被告は
裁判が進むにつれて反省の意を示すことによって
「反省してるなら」
と思ってもらえるようになりました。
それが死刑の回避にもつながったわけです
(死刑の判断基準に「反省」の要素は大きいみたいですし)。
ところが。
殺された側=被害者は、
裁判が進もうがなにしようが
態度も意志もなにも示すことができないわけです。
殺した側は「生きてるから」そうなりましたが、
殺された側は「生きてないから」それで終わりです。
その時点で不公平ですよね
(新たな証言や証拠、弁護士の手腕はありますが)。
その被告がいなければ殺されることもなく、
この先も長い人生を過ごせたかもしれない。
それを、いっときの感情の高まりか
気の迷いなのか、なんなのかはわかりませんが
一方的に奪ったわけですよ。
なのに人権は守られる。
反省すれば死刑も免れる。
そんなアホな。
人権の保護を考えるのであれば、
「"何人も犯すことの出来ない人権"を奪った場合は
奪った本人の人権と引き替えとする」
というような考え方じゃないと成り立たない気がします。
すなわち人権の剥奪……すなわち死。
でも、それだと被害者側と
「同じステージ」に行くだけなんで、
そもそも「罰を受けてすらいない」感じがします。
プラスアルファの罰があってもいいくらいですよ。
だから、人の命を奪っておいて人権が守られるなんて
おかしな話なことこの上ないと思います。
だったら被害者の人権は
加害者側以上に手厚く守られないとおかしいですよね?
なのに、現在の裁判では
殺されたら人権ナシみたいな印象ですよ。
死刑云々より、その方が大問題だと思いますけど。
ぼくは、裁判に於いて
「反省」とか「更正」を考慮できるケースってのは
殺人以外の場合しかないと思いますけどね。
被害者が生きてる場合。
ホントに反省して誠意を伝えてれば、
被害者自身が許す気持ちになれるかもしれない。
……だったらそもそも裁判すら必要ないんです。
だれのための裁判なのか?
ぼくは、
被害者(遺族)のための裁判じゃないとダメ
だと思うんですが、
きっとそうじゃないんでしょうね。
被害者が納得するかどうかではなく、
「世間にあてはめる」というか。
だからこういうことになるんだと思います。
それが裁判というものなのかもしれませんが。
あとはもうひとつ。
殺人となってしまった事件でも、
「正当防衛」とか「同情できる殺人」の場合。
この二つに関しては、いまもそうだと思いますが
やっぱり情状酌量の余地はないとダメですよね。
正当防衛はもちろんですが、
妻がレイプされた挙げ句無残に殺されたことへの復讐とか。
こんなケースの殺人は
「殺されてもしかたない」要素がありますからね。
「自分でまいた種」というか。
それまで「殺人」でひとくくりにされたらたまらないです
(判決だけじゃなくて前科としても)。
けっきょくぼくが言いたいのは、
「だれが悪かったか」
「どこに原因があったか」がすべてであって、
殺した人数やその後の態度は関係ない。
そして
身勝手な殺人は命を持ってしても償えない。
(だから、反省やら謝罪やらはなんの意味もないということで
死刑ですら生ぬるいということです)
以上です。
「殺人」と「反省」は(「精神状態」も)、
金輪際リンクさせないでほしいです。
……長々とすみませんでした(^^;
かなりまとまりの文章になってて
うまく書ききれてないことも申し訳ないです。
無期懲役。
裁判員制度で初の死刑求刑の結末がこれです。
死刑については前にも少し書きましたが、
もうちょっと書き足りなかったことを書いてみます。
昨日、この裁判を伝えている
テレビの中からしか情報を得ていないんで、
足りない部分もあるかもしれないと先に断っておきます。
裁判員が話していた内容がものすごく印象的でした。
「裁判員をやる前までは死刑が当然だと思っていたが
実際に裁判員になるとそうではないとわかった」
「裁判の初めの頃の被告の態度を見て死刑だと思っていたが
裁判が進むにつれ態度が変わり反省しているのが伝わってきた」
……若干違うかもしれませんがこんな感じです。
これって、前者に関しては、
裁判官たちと過去の判例や判決の考え方なんかも
いろいろと話をしたと思うんですが、
そういうことも含めていろいろ話し合う中で、
「そもそもの考え方が変わってきた」
んじゃないかなーと思うんですよね。
後者に関しては、
被告の態度が反省したことによって心が動かされてる。
同じ人の言葉ではないかもしれませんが、
裁判員の言葉として
「感情に流されずに冷静に判断したい」
みたいなことが報道されてました。
おもいっきり被告の「態度の変化」によって
感情に流されちゃってる気がするんですけど。
まぁ、「感情に流されず」というのは
遺族感情のことを指してそうな気がしますが、
まさか加害者側の感情とは……。
あと、いつものごとく
「死刑にしなければいけないほどの殺し方ではない」
とか
「これを胸に留めしっかり反省して生きてほしい」
とか。
えーと……
遺族(本人も)にとっては
殺し方なんてなんら関係ないし、
反省しようがしまいが
死んだ人は帰ってこんのじゃボケェ!!
って感じですけど。
愛する家族が殺された。
その事実だけですよ。
好きだったけどフラれて腹いせに殺した。
おばあちゃんもろとも。
——ってことですよね?
完全なる自分の勘違いで逆恨みで。
これを反省して、それを見守る理由がわからない。
「犯行時、被告は正常な判断が出来なかった」
とかよく聞きますけど、
殺すくらいだから、正常じゃないに決まってる。
どんなに反省しても、
またいずれ同じようなケースがあったら
また同じように殺す可能性の方が、
殺さない可能性よりもはるかに高いはずですよ。
人間、根本から変わることなんてそうそうないですって。
とくに1回実績があるんならなおさら。
正直、部外者のぼくでも
「被告の今後の人生」になんて興味ないのに
遺族にとっては反省なんかなんの意味もないわけです。
逆に「反省するくらいなら殺すな」と。
今回、殺した側=被告は
裁判が進むにつれて反省の意を示すことによって
「反省してるなら」
と思ってもらえるようになりました。
それが死刑の回避にもつながったわけです
(死刑の判断基準に「反省」の要素は大きいみたいですし)。
ところが。
殺された側=被害者は、
裁判が進もうがなにしようが
態度も意志もなにも示すことができないわけです。
殺した側は「生きてるから」そうなりましたが、
殺された側は「生きてないから」それで終わりです。
その時点で不公平ですよね
(新たな証言や証拠、弁護士の手腕はありますが)。
その被告がいなければ殺されることもなく、
この先も長い人生を過ごせたかもしれない。
それを、いっときの感情の高まりか
気の迷いなのか、なんなのかはわかりませんが
一方的に奪ったわけですよ。
なのに人権は守られる。
反省すれば死刑も免れる。
そんなアホな。
人権の保護を考えるのであれば、
「"何人も犯すことの出来ない人権"を奪った場合は
奪った本人の人権と引き替えとする」
というような考え方じゃないと成り立たない気がします。
すなわち人権の剥奪……すなわち死。
でも、それだと被害者側と
「同じステージ」に行くだけなんで、
そもそも「罰を受けてすらいない」感じがします。
プラスアルファの罰があってもいいくらいですよ。
だから、人の命を奪っておいて人権が守られるなんて
おかしな話なことこの上ないと思います。
だったら被害者の人権は
加害者側以上に手厚く守られないとおかしいですよね?
なのに、現在の裁判では
殺されたら人権ナシみたいな印象ですよ。
死刑云々より、その方が大問題だと思いますけど。
ぼくは、裁判に於いて
「反省」とか「更正」を考慮できるケースってのは
殺人以外の場合しかないと思いますけどね。
被害者が生きてる場合。
ホントに反省して誠意を伝えてれば、
被害者自身が許す気持ちになれるかもしれない。
……だったらそもそも裁判すら必要ないんです。
だれのための裁判なのか?
ぼくは、
被害者(遺族)のための裁判じゃないとダメ
だと思うんですが、
きっとそうじゃないんでしょうね。
被害者が納得するかどうかではなく、
「世間にあてはめる」というか。
だからこういうことになるんだと思います。
それが裁判というものなのかもしれませんが。
あとはもうひとつ。
殺人となってしまった事件でも、
「正当防衛」とか「同情できる殺人」の場合。
この二つに関しては、いまもそうだと思いますが
やっぱり情状酌量の余地はないとダメですよね。
正当防衛はもちろんですが、
妻がレイプされた挙げ句無残に殺されたことへの復讐とか。
こんなケースの殺人は
「殺されてもしかたない」要素がありますからね。
「自分でまいた種」というか。
それまで「殺人」でひとくくりにされたらたまらないです
(判決だけじゃなくて前科としても)。
けっきょくぼくが言いたいのは、
「だれが悪かったか」
「どこに原因があったか」がすべてであって、
殺した人数やその後の態度は関係ない。
そして
身勝手な殺人は命を持ってしても償えない。
(だから、反省やら謝罪やらはなんの意味もないということで
死刑ですら生ぬるいということです)
以上です。
「殺人」と「反省」は(「精神状態」も)、
金輪際リンクさせないでほしいです。
……長々とすみませんでした(^^;
かなりまとまりの文章になってて
うまく書ききれてないことも申し訳ないです。