私の思考の縄張りは、既存の価値観や権威やなどにより弱さや強さを示すためのスカウター(鳥山明先生にをバカにしているわけではなく)にしか、反応しない二次元の世界を表している。



私の言う実践が挑戦となり、ボルテージを高める言語となり、その上での存在を示すものとなっているようだ・・・・・。





それが意味する答えは平面上の二次元の世界にあり、立体感は存在しない、無に近いものに表象される。




三次元の視覚を持つ私の中で存在しうる「私」は、



もう一つ特徴付ける何かを付け加えなくてはならない。



見取り図のように制作された「私」の縄張りを、もう少し見やすくするための、色や効果を取り入れなくてはならない。






「私」が他者の中に存在する、繋がるための、開かれた「私」のために・・・・・。

【実践という行動と挑戦という行動の違い】・・・・・私的に簡単に言えば、実践とは思考に変化を与る行為であり、挑戦とは思考が邪魔をし制限された行為である。


【Maurice Merleau-Pontyより】

外的刺激により曲を演奏するキーボードに有機体(生活機能をもつ生物)を例えるのは適切ではない。生活機能をもつ生物が曲づくりに関与するからだ・・・・・「・・・・・行為の目標となるものの諸特性と主体の意図とは・・・・・互いにあらゆるものが混じるだけでなく、一つの新しいすべてのものを含む一まとまりな組織を構成する」。逃げ行く動物を目と耳が追って刺激と反応が互いにやり取りしているときに、「どちらが先だったか」にこたえることが出来ない。生活機能をもつ生物のあらゆる運動は常に外的影響によって条件づけられるから、行動を環境のせいにして扱うことも、お望みならできよう。だが、生活機能をもつ生物の受け入れる全ての刺激作用は、生活機能をもつ生物がまず身体を動かし受容器官が外的影響にさらされて初めて可能になったのだから「行動こそあらゆる刺激作用の第一原理である」ともいえるのだ。

このように刺激の形態は生活機能をもつ生物そのものによって、つまり生活機能をもつ生物が外からの作用に応える本来備わっている方法によって物事を新しく創り出(創出)されるのである。もちろん、自身を引き続き存在させるには、生活機能をもつ生物は自分の周囲でいくらかの物理的な物事を引き起こす直接の原因に出会わなくてはならない。けれども、そのものの本来備わっている本性、神経中枢の反応を起こさせる最低の刺激量、諸器官の運動に応じて物理的世界の中から自身の感じうる世界を選択する」のは、生活機能をもつ生物なのだ。「環境は生活機能をもつ生物の存在と活動によって世界に出現する。世界の中に十分な環境をうまく見つけ出す場合にのみ生活機能をもつ生物が存在しうるのだ」。組織に関係のないものでは単純な曲想に、めちゃくちゃな音程をめちゃくちゃなリズムで産み出すようなキーボードなのだろう。


つまり、行動に意味を持たせるなら、実践から産出する物事を思考に寄与することである。しかし、私にはまだまだ時間がかかるようだ・・・・・。

繰り返す環境が整った毎日は、


充実しているかのように見えて


我々が定義する時間を感覚的に短縮し、


単色(習慣という罠)を創り上げてしまうようだ・・・・・。



向い合う者との相互関係(影響度)は、どの瞬間で起こるのだろうか?



長い付き合いからなのか、カリスマ性のある表現からなのかそれとも、開かれたこ心のもたらすオーラなのだろうか?



しかし、どんな関係にしろまずは「出会い」を必要としそれに依存するはずである。そしてその「出会い」とは、きっかけや突然性を必要とするように語られているが、どうやら自身の内的部分から創発するようだ。



その論述に触れ考えてみた。




スーザン・オーヤマは・・・・・・




「形態は連続的な互いに関係ある作用において出現する。それはある作用因子によって物質(または生物)に科せられたのではなく、不平等に配分されている階層レベルでの物質(または生物)の反応性と、それらの互いに関係ある作用応答性の関数なのである。互いに関係ある選択性、反応性及び条件や枠をもうけて、自由な活動や物事の成立をおさえつけつけようとするプロセスがさまざまなDNA部分の活性を集めて組織的なまとまりにし、遺伝子と環境の影響を互いに関係を覆い尽くす依存性にしている。この時、遺伝子と遺伝子産物は互いにとっての環境となり、生物外の環境が心理学的または生化学的なアナボリズム(例えば光合成)によって内在化され、外の世界を選び分け組織化する産物や行動を介して内部状態が外注化される。」



としている。



しかし、自身の内面は見えずらい。しかし、オーヤマは逆に内面を知る方法があるかのように語っている。




つまり、内面(心)とは、自身すら知らぬ選択を影響として受け入れているのではないだろうか・・・・・?



それは、系統的な由来と現在を生きる私たちの現況の経験に現れる。が、外界に出てゆくときの言葉や論拠を、私たちは内面として捉えているにすぎないのではないだろうか・・・・・?

実践から一週間たち、私の身の回りの人(家族や職場、初対面や目と目が合う瞬間的に出会う人)との相互関係はどのように働いているのか(内在的のも外在的にも、個人的にも社会的にも)、影響はどのように起こるのか?という、実践に重大な問いついて。




私の行っている実践は、ジャウォースキーによる影響である。



しかし、もちろん知っていても、影響を受けない人もいて、影響を受けても一瞬にして忘れてしまう人もいる。



生得性によるものなのだろうか?血統によるものなのだろうか?




もし、そういったものの関係ならば、それが自己・自我を形創る制約条件であって、選択はそういったものが有する独立した環境が存在することとなる。


そこで思いつくのが、リチャード・レウォンティンの名言である。


遺伝子学者のリチャード・レウォンティンは・・・・・


「生物と環境は別々に決定されるものではない。環境は、生きている存在へ外側の世界からあるものではなく、それにより新しく創り出すものなのだ。環境は自律的プロセスではなく、様々な多種生物の反映なのである。環境のない生物がないように、生物のない環境もない。」


つまり、生得性・血統の決定するもの(独立した環境)は、経験という固定された概念が作り上げた概念の中に存在しているだけであり、新しく見える実在は、実は固定せれたもの常習的なものが決定する執着の塊である。と、いうことだろうか?


外側からの世界の決定論としているだけで、実は自己・自我はなく移ろう世界でると断定する概念が本当に新しく創り出すものを妨げているのではないか・・・・・?


生得性・血統とは自己・自我ではなく、またそこに在る環境による決定ではない。




習慣的な行為が妨げる、習慣という環境の中での日常でははないだろうか・・・・・?





もう一度、自分を見つめ直してみよう・・・・・。

どうやら私の中に存在する弱さや恥じらいは、私の縄張りの中にだけに現れる懸賞金のかかった追求すべき感覚のようだ・・・・・。そして存在させるための、大切な解決策を必要とする規範にレッドカード的な知識を大目に見るようなシフトを必要としているようだ・・・・・。

私は、初対面の人とはもちろんのこと馴染みある人たちへにも、相手のその時の対応にしかた目の合わせかたなど、外部の状況により他からの命令・強制によって行動しているようだ。まさに自己・自我のない状態。ある者に言わせれば、「社会の秩序・大人の行動・文化的判断など・・・・・・」と、あたかも自己・自我をしっかりと持った人間であるような言い方もするが、所詮そこにはその環境の瞬間の規制があり、そもそも誰かが状況の適応の判断の経験の一部を唱えているにすぎない。全ての環境を知っているものは存在せず専門的な派閥のある固執されゆくだけの見方なのだろう・・・・・?

私の思っている私自身の行動とはそんなレベルではない。脳を執着・固執させるための専門的なプロセスへ向かわせるのではなく、脳を入力・出力としてでもなく、記憶装置としてでもなく、制約のない自由な所与の表現に活躍させるものである。

どうやら私は、自分の感覚すら失いつつある、環境すら整えられなくなった弱き心の持ち主のようだ。思考の中には、物理的欲求・権力的欲求・案内的欲求が存在し、「何かに・誰かに」身を委ね「何かに・誰かに」罪をかぶせようとしている・・・・・。その条件をもとに未来を予測し、将来あるべき姿を夢見てるようだ・・・・・。

何を求めこの世界を彷徨うべきなのだろうか?今ここに見える明かりの中で・・・・・。ただ私は、弱い一人の知性を持った人間である・・・・・。

自分を人間であることを心から認め、目の合うたくさんの人たちをそれぞれの系統に育まれた存在として認めてみよう・・・・・。と、思う今日です

【目が合うということはとても頻繁に起こるが、私たちがそれに従って行動することはない。】

【目と目が合ったときに起きることがある。それはまるで、目が合ったとたん魂がつながって、その瞬間に互いに相手の人生の一部になる感じだ。】(Joseph Jaworskiより)


まだまだ三日目ではあるが、私には恥じらいが見える。なんとなく「情緒不安定」な感覚と、「ナンパ」気味た感覚が私を襲い、恥じらいに感じさせられているようだ。行動を共にする同社の仲間や、見ず知らずの他者に「変な風に思われたくはない」という意識から「心を開く」ことを拒んでいるようだ。それともただ単に、他者との「同期と動機」がないだけなのだろうか・・・・・?。

その時、イメージにはある方程式みたいなものがあるという、哲学者マーク・ジョンソンの私の中の明言を思い出した(私のイメージするジャウォースキーの感覚と、私自身のイメージについて)。

【イメージとは、経験から生じ、生まれつき備わった構造により規定され、基本的な理論を持ち、それは予測・期待に投射されて広範囲の認知ドメイン構造をもたらすことができる。】

つまりこの実験のイメージとは、ジャウォースキーの経験の美化された私のイメージであり、私にも起こりうるという予測と期待であり、ジャウォースキーの言う「心を開く」とは無縁の状態にあることを示していた。限りなく彼に近づくには、本人と会い話し合う経験を前提するが、それはかなわない事実である・・・・・。まだ三日目ではあるが、思考を変えてみる。進化する不安定な生物として存在する心身がそこにあり、弱さすらも知らぬ自由があり、馴染みある感覚は自身のものではなく系統の教育の中で現れる反射として考えてみる。

「反射に対して、意識することで別の反応が得られるのではないか?」という単純な試みだ。なじみある感覚を脱ぎ捨て、新しい感覚を植え付けることにより自身を進化へ導く!精神カウンセラーが他者を導く実験とは違う、実践による自身の体験の進化を自身で導いてみる。

今日は、私どもの結婚記念日です。

  • 心遣=愛する人の人生と成長に対して積極的に気配りをすること
  • 責任=身体的な欲求はもとより精神的な必要性に対しても配慮をすること
  • 尊敬=相手が成長をすることを必要としているときに、思い通りに成長できるようにすること

これが、妻と子供たちに対して私が「心の中でする」約束です。