実践から一週間たち、私の身の回りの人(家族や職場、初対面や目と目が合う瞬間的に出会う人)との相互関係はどのように働いているのか(内在的のも外在的にも、個人的にも社会的にも)、影響はどのように起こるのか?という、実践に重大な問いついて。
私の行っている実践は、ジャウォースキーによる影響である。
しかし、もちろん知っていても、影響を受けない人もいて、影響を受けても一瞬にして忘れてしまう人もいる。
生得性によるものなのだろうか?血統によるものなのだろうか?
もし、そういったものの関係ならば、それが自己・自我を形創る制約条件であって、選択はそういったものが有する独立した環境が存在することとなる。
そこで思いつくのが、リチャード・レウォンティンの名言である。
遺伝子学者のリチャード・レウォンティンは・・・・・
「生物と環境は別々に決定されるものではない。環境は、生きている存在へ外側の世界からあるものではなく、それにより新しく創り出すものなのだ。環境は自律的プロセスではなく、様々な多種生物の反映なのである。環境のない生物がないように、生物のない環境もない。」
つまり、生得性・血統の決定するもの(独立した環境)は、経験という固定された概念が作り上げた概念の中に存在しているだけであり、新しく見える実在は、実は固定せれたもの常習的なものが決定する執着の塊である。と、いうことだろうか?
外側からの世界の決定論としているだけで、実は自己・自我はなく移ろう世界でると断定する概念が本当に新しく創り出すものを妨げているのではないか・・・・・?
生得性・血統とは自己・自我ではなく、またそこに在る環境による決定ではない。
習慣的な行為が妨げる、習慣という環境の中での日常でははないだろうか・・・・・?
もう一度、自分を見つめ直してみよう・・・・・。