8/22 からくり道場

テーマ「プライドの捉え方」

 



いろんな話があったけど、自分としては、一番最後に出てきた「許す」というトピックが、一番興味深かった。




僕にとって、「許す」という心理は、以前から大きな謎だった。


もしかしたら自分は、今までの人生の中で一度も、人や自分を許したことがないんじゃないか?って思うくらい、自分にとって未知のもの、という気がするのだ。




いやもちろん、外見上では「許す」にあたる行為をしたことは、ある。


だけど、その時に自分の心の中で起きていた現象は、、、あれは、「我慢」とほとんど同じだと思う。


不満や恨みは、そのまま心の中にある。だけど、いろんな事情(先生から許してあげなさいって言われた、とか)から、ああこれは「許す」ということにしなきゃいけない流れなんだな、って判断して、許すという立場をとることを、不承ながら選んだ。そんな感じ。


これって、本質的には、許してないよね。


じゃあ、ほんとに許すことができた場合、心の中はどんなふうになるんだろう?


そして、自分はどうしてそういうふうにできないんだろう?


こんな疑問が、ずーっと長い間、心の片隅でくすぶっていた。






なずさんとちかさんは今回、「プライド」という話をする中で、それぞれの過去の“黒歴史”みたいな話をたくさん披露してくれた。ダメンズ恋愛遍歴とか、子育てにおける子供との関わり方とか。




そういった当時を思い起こすと、今でも、「あーやっちまったな」みたいな痛みを覚えるのだという。


、、、という話が、自分にとっては、「へーーそうなんだ?」って思えた。



僕の中では、そういうネガティブな心理要素がすっかり消えてまっさらになることが、「許す」なのだ、と、なんとなくそんなイメージがあったのだけど。

 

 

でも、どうやらそういうことではないらしい。




痛みはある。でも、恨んではいない。

 

そして、むしろ、痛みを受け入れ、抱え続けることが、許すことの大切な一部なのだ、と、そんな話をしていた。

 

 

 

 

 

ふーむ。これはまたなんとも。。

 

 

 

今まで思ってたイメージとは結構違うのかもしれないなこれは。。

 

 

 

、、、ってな感じで、なんとなく思いを巡らせていたら、、

 

 

 

 

ふと、、ちょっと突飛なことを思いついた。

 

 

 

 

 

 

人間の体が持つ、「免疫」の不思議さ、曖昧さについて、である。

 

 

 

 

 

 

人体は、体の中に入り込んだ異物(ウイルスとか、毒物とか)を排除するために、免疫という機能を身に備えている。

 

 

体の中の成分を「自己」と「他者」に判別し、他者を排除する仕組みだ。

 

 

このとき、「自己」に対して免疫反応が起きないようにブレーキをかける仕組みのことを、「免疫寛容」と呼ぶ。

 

 

免疫を担う細胞は、体が発達する過程で、自分の体を形成する成分の分子に触れて、その形状や組成を学習し、「これは攻撃しない」というリストを作っていくという。そうやって体の素材成分をくまなくリストアップし、それらに対して「免疫寛容」という特別待遇を与えるわけだ。

 


 

 

そして非常に面白いことに、、、この時、元来は自分の身体成分ではないのに、あたかも体の一部のように扱って、免疫寛容の特権を与える“相手”がいる、というのだ。

 

 

 

腸管内に棲みつく、「腸内細菌」である。


人の腸管の中には、100種類、100兆個もの腸内細菌が住んでいると言われる。この数は、人体そのものの細胞数(37兆個)を遥かに上回る、ものすごい数だ。

 

 

腸内細菌は、人体の健康や栄養状態を保つ上で、とても大きな役割を果たしている。腸内細菌が、人間の健康を左右するメインファクターと言っても過言ではない。

 

 

 

 

で、、、菌=バクテリアは、当然ながら、人間とは別の生き物だ。

 

 

胎児がお母さんの子宮の中にいる時、その腸管内は無菌状態。子宮の中にはバクテリアは入ってこない。

 

 

それが、生まれて数日もすると、腸の中に菌が入り込み、その内壁はびっしりと菌で覆われている。


と同時に、体の免疫機能が発達していき、、、


やがて免疫寛容が確立される頃には、腸内細菌は、体の組織と同様の、「免疫システムから攻撃されない特権」を得るという。

 

 

 

 

 

人体由来ではないのだから、本来的には、他者。異物である。

 

 

だけど、それを、自分の体と同じような待遇で扱う。あたかも体の一部のようにみなす。

 

 

本来は異質な存在だけど、そこにいることを認め、許す。

 

 

そうすることで出来上がった共存状態は、、、無菌の状態よりも病原菌の感染に強く、健康的なバランスが崩れにくい。

 

 

つまり、“異物”を自分の一部のように取り込むことで、自分が、より豊かで強靭な存在になる。

 

 

 

 

 

 

あ、、、これっ、、「許す」って、こういうことなんじゃないか、って思ったんだ。

 

 

 

許す相手(対象)とは、要するに、自分にとっての他者。理解し難い異質の存在だ。



自分の常識や規範、感性に照らした時、あり得ない、受け入れ難い振る舞いをするとか。姿や形がおかしい、非常識だ、恥ずかしい、みっともない、とか。



だけど、それを排除することはしない。責めることもない。溶けて消えるわけでもない。元の姿はそのままに、そこに存在することを、認める。



それを、あたかも自分の一部のように扱って、そこに“すまわせる”。

 

 

 

そうすることで、全体の豊かさが増す。

 

 

 

 

 

なるほど。こんなふうに捉えると、「許す」という行為が、今までとは全く違うイメージで見えてきたような気がする。

 

 

 

このイメージなら、、人や自分を、許せるようになるだろうか? なるといいな。