今からもう10〜20年ぐらい前になるけど、僕は某健康雑誌の編集部に勤めていた。役職はデスク(副編集長)。

 

 

当時、編集部にはデスクが3人いて、それぞれ担当分野がなんとなく決まっていた。

 

食事・栄養担当がA氏。美容・スキンケア担当のB氏。そして僕は、“身体”担当だった。

 

「体を動かして健康になる」ことを目指して、記事を作る。具体的には、体操、エクササイズ、ヨガ、呼吸法、マッサージといったメソッドを取り上げることが多かった。



こういったメソッドを雑誌で紹介する場合、常に頭を悩ませる問題がある。

 

「体の動きを、どうやって伝えるか」である。

 

 

 

雑誌はテレビと違って、動画を使うことができない。

 

今ならネット動画と連動させることが簡単にできるけど、当時はまだ、そんな環境は普及していなかった。

 

 

 

使えるものは、二次元の、動きのないツールのみ。文字と、写真と、イラスト。

 

それを駆使して、「体の動き」という精妙なものを伝えないといけない。

 

 

 

いつも、そこに頭を悩ませていた。

 

 

 

で、、、最初のうちは、「説明を足していく」発想で、誌面を作っていた。

 

 

 

いろんな言葉を積み重ねて、体の動きをできるだけ正確に、精密に記述する。

 

足の幅はこのくらい、腕の角度はこのくらい、といった具合に。

 

言葉で足りない部分は、写真やイラストで説明する。全ての動きを網羅できるよう、連続的な動作をコマ割りにしたり、部分の拡大写真を入れたり、といった工夫も凝らした。


動きが複雑になるほど、当然、写真の点数も増えていく。

 

 

 

さらに、、、説明する内容は、「動き」だけじゃない。

 

 


例えば、このエクササイズは何回すればいいのか、という話。

 

標準的な回数が「1セット10回」だとして、、でも、体力には個人差があるし、もっと多い方がいいケースだってあるだろう。それなら、「もっと増やす」あるいは「もっと減らす」は、どうやって決めるの? それも説明した方がいいんじゃないか。

 

左右の動きがある場合なら、左右同数が基本。。だけど、動きに左右差があったり、片側だけ痛みが出るような場合も、同数でいいのか。それも説明した方がいいんじゃないか。

 

 

 

等々、、、考えれば考えるほど、説明する内容は増えていく。

 



そんなふうに、説明を足して、足して、作り上げた誌面は、、、“説明書”としてはとても精密なものだったはずなのだが、要素が多すぎて圧迫感があり、全体的に息が詰まるような印象にしか見えなかった。

 

 

 

ここまで詰めたらダメなのか。。じゃあ、、何か減らさなきゃ。

 

何を、どこまで減らして大丈夫なんだろう?

 

 

 

そんな調子で、毎月の誌面づくりは、いつも試行錯誤だった。

 

 

 

あるとき。僕は整体の先生に取材をしていた。整体の発想を応用した健康体操の話だったと思う。

 

動きの見本を見せてもらい、メモがわりにデジカメで写真を撮り、自分でもやってみて、なるほどこういう感じか、と確認し、、、

いつものように、「この体操、何回やればいいですか?」と聞いた。



その返事として、、それまで聞いたことがない種類の言葉が返ってきた。

 

 

 

「気が済むまで、やってください」

 

 

 

は? 気が済むまで、ですか。

 

 

 

「ええ、気が済むまで、です。気が済んだら、ああ気が済んだんだな、って、自分でわかりますから」

 

 

 

???は???

 

 

 

それまでの自分の常識では、なんとも収まりどころのない言葉だった。

 

 

 

、、、、とはいえ、、先生がそういうのだから、まずはそのごとく受け取るしかない。

 

 

 

しょうがない。本当に気が済むかどうか、自分でやってみよう。

 

 

 

帰宅した僕は、教えられたその体操を、実際にやってみた。

 

 

 

何度も、繰り返し、、

 

 

 

すると、、、、

 

 

 

どのくらいやったのかは覚えてないけれど、、、

 

 

 

やがてそのうち、、、心の中にふと、「ああ、もういいか、もういいや」みたいな気分が、湧いて出てきたのである。

 

 

 

気が済んだ。納得した。あるいは、、、もう飽きた、みたいな感じ。ともいえる。



へ? これか? これのことか??

 

 

 

翌日、僕はその先生に電話をしてみた。

 

 

 

「、、もういいや、もう飽きた、みたいな感じになったんですけど」

 

 

「ああ、それですよ、それでいいです」

 

 

 

ハァ???

 

 

 

、、、なんかこう、、、気が抜けたというか、、、

 

 

 

それまで、ちゃんと伝えなきゃ、全部きちんと説明しなきゃ、ってあんなに頑張って考えて色々工夫してやってきたのはなんだったんだろう、、って、膝カックンを喰らったような気分だった。

 

 

 

けど、、、それで、ふと、思ったんだよね。

 

 

 

そうか。全部説明しようとしなくても、体は自分で、ちゃんとわかるんだ。

 

 

 

そして、、、大事なことは、、、雑誌を読む読者も、その「体」というツールを、みんな持ってる、ということ。

 

 

 

だから、、、「読者の“体”はちゃんとわかるはずだ」って、そこを信頼して、メッセージを出せばいいんだ。



なるほどな〜〜。。。眼から鱗、とはまさにこのことだった。

 

 

 

それまでの僕は、メッセージの出し手(自分)から、受け手(読者)へと伝わっていく「情報」のなかに、全てを突っ込んで伝えないといけない、って思い込んでいた。


「情報」。この場合は、雑誌の誌面に乗っている文章や写真のことだ。そこに全ての要素が網羅され、説明され尽くされていないと、受け手にはわからない、と思い込んでいた。

 

 

 

その上で、現実の「読みやすさ」という条件との折り合いで、どこかに妥協点を見つけようとしていた。
 

 

 

だけど、、実際は、そうじゃない。

 

 

 

実際には、受け手一人一人が、自らの「体」という小宇宙を持っているのだ。

 

 

 

出し手は、自分の体内で起きた現象を伝えたいと思って、情報を出す。

 

 

 

その情報は、受け手に伝わったとき、受け手の体を刺激し、受け手の体の中で、出し手の体内と同様の現象を引き起こす。

 

 

 

これはあくまでも、受け手の体内現象なのだ。その現象を起こすために必要な材料とか、エネルギーとかは、全て受け手の体の中にあらかじめ備わっている。



だから、途中を媒介する情報が、素材など全てを運ぶ必要はない。情報は、きっかけを伝えるだけでいい。

 

 

 

あとは、受け手の体が、全てやってくれる。

 

 

 

それを、信じる。信じて、情報を出す。情報は、「きっかけ」にさえなれば、それでいいのだ。

 

 

 

いや、まさに「眼から鱗」だったのだよ。

 

 

 

で、、まあ、そんな転換が自分の中で起きて、でもそれは編集部の方針とは必ずしも合致するものじゃなくて、、といったようなこともあり、、、やがて僕は会社を辞めてフリーランスのライターになった。

 

 

 

そして、、そこからも色々あって、今は、ヒモトレをやったり、心屋をやったりしているわけだが。

 

 

 

この両方とも、この「眼から鱗」の延長線上にある。それが自分にとって、とても納得できるあり方だから、そこに関わっているのだなぁと、今でも思うのだ。

 

 

 

体には、初めから全て、ある。

 

 

 

それを信じる。信じて、メッセージを出す。

 

 

 

 

、、、というわけで、、今日は、いまの自分の“原点”を振り返ってみるお話でした。