最近は、コロナのご時世であまり話題にならないけど、それ以前はしばしば議論のマトになっていたトピック、、
「通勤電車にベビーカーを押して乗り込む」問題、というのがあった。
ただでさえ混雑してるんだから、そんなもの持ち込むな、迷惑だ、という意見がある一方で、、
ほかに選択肢がないんだから仕方がない、
乗り込む方だって仕事とかの事情があるんだ
という意見もある。さらには、、
そもそもそんなことになってしまうような社会環境が問題なのだ、、
政治がなってない、
みんなもっと寛容に、
のような見解もある。
まあ、僕はこの問題そのものに対して、何か、ものを申したいわけじゃないのだけど、、、
ひとつだけ、ちょっと思うことがあって、このはなしを始めたのね。
この議論は、
「通勤電車にベビーカーを押して乗り込むのは、周りの人の迷惑だ」
という前提で、始まっているんだけど、、、
それって本当に、当たり前で、当然なことなんだろうか?
ということ。
僕が思うに、、、
満員電車に誰かがベビーカーを押して入ったとき、乗っている人たちが「迷惑だ!」って感じるのは、、
その人たちが「そもそも不機嫌だった」から、じゃないか、と。
「そもそも不機嫌」という条件だったときには「迷惑だ」と感じる、という話なのではないか、と思うのですよ。
で、、、これは「条件」だから、そういう状況のときもあれば、、そうじゃない状況のときも、あるわけですよ。
「そうじゃない状況」っていうのは、例えば、
ちょっと想像してみて欲しいんだけど、、
満員の電車に乗ってる人たちが、、、
みんな上機嫌で、ニコニコしてる。鼻歌歌ったり、窓から入ってくる風を感じたりして。
そこに、誰かがベビーカーを押して乗り込んできたら、どうなるか、、、
車内の視線が一斉に、赤ちゃん👶にそそがれ、、
みんなの顔が二コー(^○^)ってなって、、、
口々に、話しかけ始める。
あらーかわいい❤️
ほらー笑ったっよー
こっち向いて〜〜ベロベロバーー٩( ᐛ )و
、、、
「みんなが不機嫌な満員電車」とは、もう、何もかも違う反応になるんじゃないかな、と。
ベビーカーが乗ってきたことによって、むしろみんながさらに上機嫌になるんじゃないか、と思うわけですよ。
いや、そんなバカな、とか思う?
でも、むしろ理屈で考えたら、そうなるよね。
ていうか、僕が子供の頃、半世紀ばかり前の日本のちょっと田舎では、けっこうそんな感じの雰囲気が普通にあったと思う。
知らないおじさんが、赤ちゃんや子供にベロベロバーってやったり、お菓子くれたり。
聞いた話では、台湾とかは今でもけっこうそんな感じらしい。まあ、噂でしか知らないけど。
ということで、、、
「満員電車にベビーカー」というこの問題は、、
「ベビーカーで乗り込む」という部分が問題(の争点)だと、たいていみんな思っているけど、、
実は問題の根幹は、「みんなが不機嫌だ」という部分なんじゃないか、と。
そこを「不機嫌」→「上機嫌」に転換できれば、「ベビーカーで乗り込む」というそれまでみんなが問題視していた部分は、すっかり問題ではなくなってしまうんじゃないか、と。
そういうふうに理解することも、できると思うわけですよ。
これは、、前提となる状況が変われば、「問題」の捉え方がすっかり変わってしまうというお話の、一つの例です。
で、、、同じようなことは、僕ら個々人の心の中の問題でも起きていると思うのね。
自分の心の中に、何かしら「問題だ」と思っている現象があるとしようか。
例えば、つい自分にダメ出しする癖があるとか。
つい、いつも家族や同僚に当たってしまう、とか。
いつも怒りっぽくて、口を開けば文句や不満ばかり出てしまう、とか。
こういうのって、、、その部分そのものを「問題だ」と捉えて、なんとかしようって考える人が多いんだけど、、、
いや、ちょっと待って、その前に、、
大前提として、、、あなた、いつも、不機嫌なんじゃありませんか?
その不機嫌を、ご機嫌さんに変えることができれば、、
それまで問題だー!と思っていたものは、しゅーっと消えちゃうかもしれない、、
、、、と思うのです。
「問題だと思っている部分は、ダミー。本当の問題は、別のところにある」