心の奥に、どこにも持っていきようのない怒りとか、恐怖、悔しさ、悲しさ、寂しさ、みたいなものが宿っていて。
それが、自分の気分のベースをいつも覆っている。
すると、自分の周りで起きる物ごとを、素直に受け止めることができない。
ちょっとひねくれた、ひがんだような見方になってしまう。
「どうせ私なんか」とか。あるいは、「うまくいかないのは○○のせいだ」とか。
(○○には、人の名前とか、職場とか、政治とか、社会格差とか、学歴とか、容姿とか、性格とか、病気とか、前世とか、いろいろなものが入る)
程度の差こそあれ、多くの人が、こういうものを心の中に抱えていると思うんだ。
で、、そんな生き方はもう嫌だ、って思うところから、セミナーや書籍でココロの勉強を始めたりする。
そうすると、、、多くの場合、そんなふうに自分の中に根付いている、歪んだ心の癖はどこから来たのだろう? という話になって、、、たいていは、親子関係とかに遡って、過去の記憶を掘り起こしたりすることになる。
そういうやり方から学ぶことは、もちろんあるだろう。僕も、この手のアプローチで、ずいぶんたくさんのことを発見してきたと思っている。
だけど、、、
原因探しで何かを掘り当てたときって、「あー、なるほどそうだったのか、」って納得する感じにはなるんだけど、、、
では、それで、気分のベースをモーンと覆っているもんもんとした感じはどうなるかというと、、、
案外、それまでと大して変わらなかったりする。
「そっか、そういうことだったか、見つけたぞ!」っていうすっきりした感覚が心にあるのは、見つけた時からしばらくの間だけで、、、
気がついたら、また元のように、もよ〜〜んとしている、、、
なんてこと、、ないだろうか?
僕は、ずーっとそういうことを繰り返してきた気がする。
自分の心の中の仕組みは、だんだん見えてきたんだけど、、
自分が何に囚われているか、の正体も、徐々につかめてきたんだけど、、
だから、ああこういうことなんだよね、ってそれらしく語ることはできるんだけど、、、
でも、ベースの気分は特に変わらない。相変わらず、どうせ、、、とか、お前なんか、、、とか、そういう感じの拗ねた姿勢をキープしてる。
なんだかなー、、って。
多分、そんな感じの人、けっこう多いと思うんだ。
で、、、僕の話に戻るけど、、
ある日、富士山がすぐそばに見えるところに行った。泊まりがけで。
朝、窓のカーテンを開けて、青空をバックにでーーんと構える山影を見た時、、、
息を飲むような衝動が、体の中をズーンと貫いて、、、
なんかもう、いろんな細かいことがどうでもいいやーって気分になった。
そしたら自然に、ああ生きてるってありがたいなー、みたいな言葉が、心の中に湧いてきた。
それまでの拗ねまくってた自分からしたらなんじゃこりゃ、っていう、歯が浮くようなセリフで、まじで気が触れたのかとさえ思ったけど、、
でも、その感じは、心地よかった。
要は、もう全部降参して、そこに行けばいいんだ、って思ったのね。
で、、、そこからまたけっこう時間が経ったんだけど、僕は今、富士山が見える街に住んでいて、それだけでもう毎日、実に清々しい気分をあじわっている。
つまり、、何が言いたのかというと、、
「頭でわかる」ことと、「心が動く」のは、まったく別物だってこと。
そして、心の中の「拗ね」が晴れるきっかけは、頭の活動(=原因探し)とは全く違うところに、ひょっこりあったりする。
別に、原因探しをいつまでも掘り下げる必要はなくて。
むしろ、適当なところで横に置いたほうがいい場合もあって。
それよりも、、、「自分は、これがあれば気分が晴れる」っていうものを何か見つけて、そこに入っていくほうが、よほどうまくいったりする。
「富士山」っていうのは、僕にとってのキーワードだったんだけど、これは人によってなんでも良い。
一杯のコーヒーでも、音楽とか、絵本とか、アロマとか、ぬいぐるみとか。
あるいは呼吸法とか、ヨガとか、ジョギングとかそういうのもあり。
とにかく、それに触れると気分が良くなる、と感じるもので、自分の身の回りをできるだけ埋め尽くす。
それだけで、心はずいぶん、素直になる。
そしたら、拗ねが勝手に消えていく。
原因に遡ってブロック解除とかそんなたぐいのことをやらなくても、気分が良くなることで満たしていれば、十分。
ずーっと同じようなところをグルグルグルグルしてるなーって思う人は、こんな角度から考えてみてもいいかも、です。