久しぶりに、リビング周りに掃除機をかけた。

まじ、久しぶり。

 

いやほんと、床が光ってるの、懐かしいわ。笑

 

我が家の家事分担、掃除機は僕の仕事なのね。

 

綺麗になると気分がいい、のはわかってるけど、、、なかなかね、毎日やるには至らない。

 

まあ、、、毎日やらなきゃとも思ってないし。笑

 

たまにやると、「うぉっ、綺麗になった〜」っていう落差が感動的。。。だから、まあたまにでいいやって思ってる。

__________________

 

さて、昨日は、月に一度のお楽しみ、「からくり道場」の日だった。

ココロ系(スピ系含む)の師匠、ひらいなずさん主催の会。

なずさんがやってる各種セミナー(なずスクール、心屋マスターコース、その他いろいろ)に参加している人や、卒業した人が、同窓会のような感じで集まってくる場所だ。



昨日のトークのお題は、「コントロールを手放す」。

 

 

コントロール。「こうでなければならない」「こうあるべき」みたいな発想で、行動やその結果を型にはめようとすること。

 

例えば、「ちゃんとやらなきゃダメ」「成功しなきゃいけない」みたいなのが典型的。

 

人間関係では、相手をコントロールしたい、コントロールされたい、されたくない、など、いろんな気持ちが出てくる。

距離が近い相手ほど、出てくる。一番出やすいのは、親子関係だそうだ。まあ、そうだろう。
 

 

 

 

で、、、相手をコントロールしたいという心理の裏側には、必ず、「自分をコントロールしたい」がある。

 

ここが、ポイントですね。これに、自分で、気づけるかどうか。

 

 

 

 

他者との人間関係には、「自分が自分をどう扱っているか」が、必ず反映される。

 

だから、人間関係を掘り下げて考えるなら、必ず「自分との関係」にたどり着く。

 

 


自分へのコントロールを、手放す。。。



いや、でも、コントロールしてなきゃダメでしょ、っていう面も、ある。



ちかさんが話していたエピソード。学生の頃、人体解剖実習をやっていて、「バラバラ殺人犯の心理と同じ要素は、自分の中にもある」と気付いたという。

その感覚は、僕もすごくわかる。僕も学生時代は生物系で、実験や実習という名目で、今となってはちょっと大きな声では言いにくいような“殺生行為”を重ねてきた。

その時感じた、「あ、自分にはこんなことができちゃうんだ」っていうあの感じは、自分をつくる根元的な要素の一つだと思う。

 

 


そういう部分に対しては、コントロールが利いていて欲しい。そりゃ、そう思う。



かと言って、「コントロール」が際限なく幅をきかせてしまうと、、、自分の中の好奇心や直感的衝動を抑制し続けるところから、ココロの不調、ひいては人生の不調につながってしまう。
 

その行き着く果てとして、それこそ「自傷行為」のような病んだ世界に言ってしまうことさえ、あるわけだ。

 

 

 

で、、、こんなときよく出てくる便利な言葉が、ある。


「大事なのは、バランス」

 

 

はい、全くその通り、、なのですが。

 

 

ここには一つ落とし穴があると、僕は思っていて。

 

 

もしここで、「最適バランス」という頭で考えた正解を設定して、そこに着地するようにいろいろ手を尽くす、、という発想になっていったとしたら、、

 

 

 

それこそ、絵に描いたような「コントロール」なんじゃないか、と。

 

 

 

「コントロールを手放すために、大切なのはバランス。で、ちょうどいいバランスはきっとこの辺だから、そこにピタッと落ち着くように自分をコントロールする」。。

 

 

 

アア、ワタシ、ナニヲヤッテルンダロウ、、って感じだよね。笑

 

 

 

だけど、、これはけっこうありがちな姿なんじゃないかな、と思う。



“瞑想”をしながら、「無になるんだ、無になるんだ、無になるんだ、ムニナルンダ!!」って唱えまくって膝をビシビシって叩いてる、、みたいな感じ。

 

 

 

言葉の上では一見、正しい道を辿ってるかにも見えるんだけど、、、いや、それは、違うと思うんだよなぁ、、、っていう、そんな状況。

 

 

ふむふむ。。。

 

 

 

 

それで、、、昨日の道場でなずさんとちかさんは、「笑い」というところに一つの解があるんじゃないか、という話をしていた。



自分がやっていることをちょっと俯瞰的に眺めて、「面白いねーこんな風にハマっていくんだよね〜」とか言いながら、笑って眺めるような感覚。

 

 

 

そうなんですよね、こういうセンスなんですよ、コントロール的な“頑なさ”からふっと身をはずすような、この感じ。

 

 

 

で、、、話をバランスに戻すと、、、

 

 

 

こんな風にして、頑ななところからふっと外れて、体が自由に動き始めると、、、

 

 

 

「ちょうどいいバランス」というのは、結果として、自然に現れるものだ、と僕は感じている。

 

 

 

頭で考えたバランス地点を意図的に目指すのではなく、、

 

 

 

自分が「とらわれない、心地いい感じ」のあり方で居れば、いいバランス点はそこに、自然に現れてくる。

 

 

 

片足立ちでバランスを取るとき、「あ、傾いた、ちょっと親指に力を入れよう、おっと行き過ぎた、今度は小指側、、」なんて一つ一つ考えながらバランスをコントロールする人は、いないと思う。

 

自分の意思が考えることは、「立っていよう」という部分だけ。あとは、体が勝手にバランス制御してくれる。

 

 

あの感覚。

 

 

 


つまり、「コントロールを外す」ときには、その裏側で必ず、「信じて、任せる」をやっている。



信じる相手は、誰?



直接的には、自分。より具体的には、自分の身体だったり、自分の感覚だったり。
 



で、、、本当は、そこで見ている「自分」の向こう側(奥の方)に、自分個人の枠を超えた普遍的、超越的な何かがあるんだと思う。



画一的ではないけれど、普遍性のある、何か。


まあ、神様、みたいな名前で呼ばれることが多いんだけど。

 

 

でも、人間が「神様」みたいな具体的な名前をつけた瞬間に、その「何か」の普遍性と超越性は、一つの宗教(=人間が作ったロジック)」の枠の中に収まるべくいろいろな部分が削り落とされてしまうような気もするんだな。




そういうものを想定した上で、改めて振り返ってみると、、、




「自分の中の、バラバラ殺人ができてしまう部分」っていうのは、むしろそちらの方が、自分をコントロールした結果(コントロールによって超越的な何かとのつながりが切れてしまう)なのかもしれない、という気もする。




ふむふむ。

 

 

 

というわけで、最後の方はお盆の最終日にふさわしいそんな感じのお話にもつながっていった、からくり道場の1日でした。