先日の記事↓に、もう1回続編を書いてみる。
ここまでの要点は、
・「自分を責める」という心のクセの奥にある心理的構造は、動物の「自傷行為」と似てるんじゃないか。
・「自傷行為」の原因は、人間の飼育下で生じるストレス。これは、野生環境で生じるストレスとはかなり異質。
野生のストレスの典型例:サバンナで暮らすシマウマにとってのライオン
飼育下ストレスの典型例:犬が鎖に繋がれっぱなしで、散歩などの機会がろくに与えられない状況
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飼育下の動物が自傷行為に陥るのは、例えば、犬が鎖に繋がれっぱなしで全く外に出歩く機会がないとか、その生き物本来の行動本能と照らしてあまりに狭い空間に閉じ込められているとか、群れで暮らす習性があるのに仲間がいないといったような、本能的習性を抑圧するストレスが身に降りかかった場合である。
その動物は人間の管理下に置かれているため、自力ではその状況を全く解消できない。
そういうストレス状態におかれた動物たちの体の中でも、副腎皮質ホルモンやアドレナリンなどが、バンバン発生するだろう。彼らの体に本能的に備わったストレス対策システムが、現状をなんとかしようとして、全力で稼働し始めるわけだ。
でも、そうやって心拍数や血圧が高まり、毛が逆立ち、牙を剥いガンガン吠えたとしても、、
鉄の鎖をちぎるほどの力は出ないし、狭い檻を広げることもできない。
相手がライオンなら、数十秒も全力疾走すれば、逃げ切れるかもしれないのに、、、
こんな状況が慢性化。体に備わったストレス対策システムが全く役に立たず、ただ消耗するばかり。。。
、、と、そんなケースにおいて、自傷行為が生じるのである。
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で、、自分を責めることがやめられない人の心の中にも、これと似たような成り立ちのストレスがあるんじゃないか、というわけだ。
その人の中にある、本当はこんなことやりたい、とか、こういうのが好きだ、といった衝動を押さえ込んできたストレス(ここではガマンストレスと呼んでおこう)が、「自分を責める」という形に転化されて、溢れ出ているのではないか。
これはまあ、ふと思いついた推論なのだけれど、自分自身の身体感覚に照らしてみたときに、すごく、「ああ、それだよ、それ」というような、“的を得た感”がある。
だから自分としては、この解釈は、けっこういい線行ってるんじゃないか、という気がしている。
で、今日は具体的に、この「自分を責める」という厄介な心のクセから抜け出すにはどうしたらいいのか、考えてみたい。
まず、一つ目の大事なポイント。
「自分を責める」という行為そのものを「やめよう」「抑えよう」とするとか、責めてしまったことにダメ出しするとかは、ほんと、まったく、意味がない。
おそらくたいていの人が、ついそういうアプローチをしてしまうんだけど、それは本当に、心底、意味がない。
なぜならば、「自分を責める」というその行動は、僕らの内側で起きたいろんなプロセス、、、ストレス応答とか、我慢とかがいろいろ重なり合った、その成れの果てとしての「結果」であり、原因は全然別なところにあるから。
結果の部分を指差して目くじらを立てても、そこには何もないから。
例えていうならそれは、、、
「コンロに火をつけて水の入ったヤカンを乗せて、水が沸騰したら、ヤカンの口から湯気がシューシューと出た」
という状況で、
「湯気を止めようとして、口に栓をする」
ようなものだ。
まあ、無理やり栓をすれば、多少は抑えられるかもしれないけど、その代わり、蓋から湯気が漏れるよね。
そして、もし蓋の方もキッチリ密閉したら、、、内圧が高まり、いずれシャンパンのように栓が吹き飛ぶ。
それじゃあ、止めたことにならないよね。
湯気を根本的に止めるには、火を消すしかない。
と、、理屈はわかってても、つい、気持ちは、シューシューいってる口の方を向いちゃう。
まあ、自分もいまだに、気がつくとそっちに気持ちがいっちゃってること、よくある。
だから、行っちゃうのは、まあ、仕方がないんだけど。
でも、、とにかく、そっちでいくら頑張っても、何も解決しない、改善しない。それは覚えておこう。
じゃあ、どうすれば火を消せるのか。
順番に考えてみよう。
火を起こしているのは、ストレスだ。
ただのストレスじゃない。やりたいことを抑え込んだり、嫌なことを頑張ってやってたり、、に伴って生じた「ガマンストレス」。
で、、犬の場合なら、人間の手で鎖に繋がれ、外から強いられて生じた「ガマンストレス」なのだけれど、、
人間の場合は、、、自分が自分に課した決め事、心の中の「マイルール」が、我慢を強いている。
だから、一番いい解決策は、自分が自分に強いている「我慢」を解除すること。
そう、理屈の上では、答えははっきりしてる。
でも、現実にはなかなかそこにたどり着けない。
なぜならば、自分がどんな我慢を自分に強いているかは、容易には分からないからだ。
いやまあ、容易にわかるような我慢もある。でも、後になって振り返ってみるればわかる、そういうのは、それほど“大物”じゃない。
“本命”は、心のズーーーっと奥の方で、多くの場合、「常識」や「良識」と溶け込んだ姿で、シラーーっと佇んでいる。
そう簡単に、正体をバラすような奴じゃない。
でも、どうにかして、そこに近づいていきたい、見つけたいわけだ。
それには、どうしたらいいのだろう。
はい、これが2つ目のポイント。
自分の中の“我慢”に気づく練習を重ねて、センサーの感度を高めていくこと。
これが、めちゃくちゃ重要なことだと、僕は思っている。
「あ、この辺、、なんか怪しいな、無理してるっぽいな」って、なんとなく感じる感覚が、あるんですよ。
言葉でいうなら、、、「違和感」かな。
例えば、、、友人とか、会社の同僚などで、「みんなで食事に行こう」っていう話になったとする。
「どこに行く?」
「あ、いいとこ知ってるよ、あそこにできた新しい居酒屋。割引クーポンあるし」
「おっ、いいねー。じゃ、それで行こう」
「よーし、決まった〜〜」
みたいな流れになったとして。
で、自分としても、まあそれでもいっか、、、とか思いつつ、、、でも、微妙に、いやぁ、なんだかなぁ、、みたいな気もする、なんてこと、ありません?
その、微妙な「いやぁ、なんだかなぁ、、」が、、違和感。
本音の本音のところでは、その決定に賛同してないわけだ。
なのに、「まあいっか」って感じでそのお店に行く、、としたら、、それは、ごく微妙に、だけど確実に、自分を我慢させている。
だから、そういう感じの心の中の微妙な声を、なるべく大事にする。できるだけ、いうことを聞いてあげる。
まずはわかりやすいところから、感じ取る意識をしてみる。
僕の場合、上の例のような「食べ物がらみ」の状況は、割と感じ取りやすい。
いま本当は何を食べたいんだろう? 今食べようとしてるこれは、本当に食べたくて選んだんだろうか? みたいなネタね。
もし、違和感に気づいたのに、なんらかの大人の事情とかで聞いてあげられなかったら、後でちゃんと「ごめんね」って自分に謝る。
そして、埋め合わせとして、「今日は、心底食べたいものだけを食べる」みたいなことを本気でやる。
さらに、もし我慢が溜まってきたような気がしたら、、気のおけない友人とかに「今日は愚痴聞いて」ってお願いして、話を聞いてもらう。
そんな感じのことを、日々、少しずつ積み重ねる。
そんなふうにやっていくと、、だんだん、我慢のセンサーの感度が高まって、、、我慢のできない体になっていく。
当然、自分の本音に素直な生き方を、自然と、選ぶようになるわけだ。
そうなると、、、「自分を責める」も、いつの間にか少なくなっている。
すごく遠回りの話に聞こえるかもしれないけど、、
実際にやってみたら案外そうでもない、思いのほか自分の心の中の変化は早い、というのが、僕の実感です。