子どものころ、友達と、何かのきっかけでケンカになったりしたとき、、、

口論の果てに、こんな言葉が飛び出てくることがあった。

「あんたなんか絶交よ!」

、、この言葉、僕は、自分から言った記憶はないのだけど、言葉としては、なんとなくココロがヒリヒリする感触とともに、割と強い印象を伴って記憶されている。

ということは、誰かからこう言われてとても傷ついたとか、ホントは言ってやりたかった場面ですごい我慢をしたとか、何かそんな形で、自分のココロの形成途上で、トゲのように突き刺さった言葉なのかもしれない。

ふと、そんなことを、思い始めた。

なんでそう思ったかというと、、

大人になってからは、さすがにこの言葉を言ったり言われたりすることはないのだけど、、、

でも、自分のいろんな振る舞いに伴うココロの動きを観察すると、、

主旨としては、子供の頃の「絶交」=「相手とコンタクトを断つことで相手に嫌な思いをさせる」と、ぴったり重なるような動機で振る舞っていることが、ちょいちょいと、あるようなのだ。

例えば、仕事上のやりとりで、何か、イヤな思いをさせられた相手がいるとする。

あそこには、今後、もう仕事を頼まないことにしよう。縁を切ろう。

、、などと判断するのは、まあ、どこにでもある話。

で、、これは、表面上は、ビジネス的な損得判断もしくはリスク回避的な選択ってことで、合理的に説明できるけど、、

実はココロの中では、「お前なんか絶交だ!」っていう感じの、子どもじみた仕返し心理が動いていたりする。

いや、まあ、、みんながそうなのかは知らないけどね。。

少なくとも、自分のココロの中には、そういう心理が、けっこう強く根を張っている。

そして、自分の人生を振り返ると、、

折に触れて幾度も、繰り返し、この「あんたなんか絶交!」を発動しているようなのだ。

言葉としては表明してないけど、ココロの内では、(無意識のうちに、だが)何度も「絶交宣言」をしている、、

、、ということに、さっき、気がついた。

うーむ。。。

繰り返してる、ってことは、、、

たぶんその背後に、、

ホントは言いたいけどまだ言えないでいる、未消化の、鬱屈した気持ちが、何かきっとある。

さて、自分のホンネは、どこにあるんだろう。


ーーーーーー

まずは、「お前なんか絶交だ!」と、口に出してみる。ここが、とっかかりだから。

お前なんか絶交だ

お前なんか絶交だ

お前なんか絶交だ

、、、

ふと、おもいついたことを書いてみよう。

絶交、という行為が、相手を不快にさせる手段として選択されるというのは、考えてみると、なかなか興味深い。

だって、もし相手が、自分のことをハナから嫌っている、もしくは何の興味も関心も抱いていないとしたら、「絶交」という手段には、なんの効果も、意味も、ないからだ。

「絶交?それが何か?あなたのことなんか、初めから眼中にないですけど」と言われてしまったら、ジ・エンドなのである。

ということは、だ、、、

「絶交だ」という言葉をつい持ち出したくなる(絶交をもって相手にイヤな思いをさせてやろうと思う)ココロのうらには、実は、相手が、自分のことを大切に思っているはず、という確信があるわけだ。

しかも、、

もし、自分の目的が、相手と縁を切ることそのものにあるとするなら、

わざわざ相手に向けて「絶交」を宣言する必要など、ない。

単に、縁を切ればいいだけだ。

何も言わずに、ただ連絡を断つ、というやり方で、本来、全く問題ない。

なのに、わざわざ、これみよがしに、相手に向けて「絶交よ!」と叫びたくなるのは、、、、

本当の目的は、縁を切ることなんかじゃなくて、、

相手が自分を大切に思っているかどうかを見極める“踏み絵”として、「絶交」という言葉を持ち出している、ということになるんじゃないか。

あんたなんか絶交だからね、そしたらあんた、困るでしょ、困るでしょ、困るんでしょ!ねぇ、どうよ、どうなのよー!

、、って感じ。

うわー、これは文字にすると、相当、痛いね。笑

でも、子どものころからココロの奥の方にくすぶってきたであろう未消化の気持ちっていうのは、このくらい分からず屋で幼稚さ満開だったりするものだ。

たいていは、そんなものがあると認めたくないから、硬く、蓋をして、触れないようにしているけど、、

僕はいま、それを掘り返しているわけだ。

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、、もうちょっとすすんでみる。

「絶交したら困るんでしょ」って相手に迫りたくなる衝動が、どうしてココロに湧いてくるのか?その衝動のさらに根っこには、どんな気持ちがあるのか。

、、と考えると、、

これは単純だ。そこにある気持ちを、もっと素直な言葉でいうなら、

「仲良くしたい」

「大切にしてほしい」

これにつきる。

それが、少しひねくれた、相手を試すような表現として現れると、

「あんたなんか絶交よ!」

になるわけだろう。

ホントは、「仲良くして」っていいたかったけど、それが素直に言えなくて、つい「絶交よ!」って言ってしまう。


なるほど。

まあ、ありそうな話である。


で、、、だ。

自分の場合は、もう一段階あるわけで、、、

僕は、自分では、子どもの頃、この「絶交だからね!」も、言えなかったのだ、おそらく。

どうして、言えなかったのかな。

それはたぶん、、

自分は、そんな言葉を使うような、分からず屋で幼稚なガキじゃない、という、一種の自制心だろう。


要するに、、いい子でいたかった。


でも、、たぶん、内心は、言いたかったんだろうな。

「絶交よ!」とか言い合いながらケンカしたり仲直りしたりしてる周りのクラスメートとかを、ガキっぽい奴らめオレはそんなんじゃないぞと見下しつつ、、

でも、内心は、きっとうらやましかったんだろうな。

あんなふうに、ケンカしながら仲良くなる友達の輪に、自分も、入りたかったんだろうな。


それがうまくできなかったそのリベンジを、、

大人になってから、中途半端な形で繰り返しているのかもしれないな。

でも、仕事関係の場とかでそんなことをいくら繰り返しても、、

子どもの頃の、あのうらやましさの埋め合わせにはならないよね。


ふぅーー


はぁーー


なんともまあ、情けない感じの話だけど、、


たぶん、そんな感じなんだな。


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最近、僕の身の回りでは、いろんな巡り合わせが巡り巡って相互に絡み合って、とっても面白い感じの流れが沸き起こっている。

そこから生まれた、新たな人とのつながりは、たぶん、この先の自分の人生で、とっても重要なものになっていくんだろうな。そんな確信が、日増しに高まっているのである。


今までの人生、僕はどちらかというと、なんでも自分ひとりでこなすやり方を選ぶことが多かった。

仕事では、会社を辞めて独立して、自分の本を書くことを目指してきた。

音楽も、基本、ソロで演奏するスタイルでやってきた。

何かを学ぶという場面でも、師匠につくのは苦手。多くのことを、独学で学んできた。最初は誰かについた場合でも、最終的にはそこを離れて、ひとりになった。

「ひとりでできる」というのは、それはそれでいいとして。

でも、他者と関わり合い、深め合うアプローチを、避けてきたという面があるのも、事実だ。


だから、いま身の回りで起きている現象は、自分の中では、極めて珍しい、、というか、人生初の領域に入りつつある、基本姿勢が劇的にギアチェンジしつつある、そんな気分なのだ。


、、と、そんなタイミングで、この「あんたなんか絶交よ」問題が、ココロの中に浮上してきた。


これもまた、実に、面白い流れだなぁ、と。