仁さんがbeトレでいつも言ってる言葉。
「ここは、心の「あり方」のお稽古をするところだ」
心の「あり方」。
心に悩みを抱えがちな人はたいてい、ちょっと癖のある「あり方」=人生観を身につけてしまっている。
典型的なのは、「私なんて、、」と、自分を卑下する態度。
私なんてどうせ、愛されない。
私なんてどうせ、うまくいかない。
私なんてどうせ、何やっても迷惑になる。
私なんて、私なんて、、、
何をするときにも、ついこんな風に自分を見下す前置きが付いて回る、そんな「あり方」。
まあ、そりゃあ、悩み多き人生になるだろうなって、文字でこうやって説明すればたいてい誰でも想像がつくと思う。
でも、、自分が無意識にやってる“それ”には、案外、気づかない。
そして、そんなあり方を抱えたままで、いろんな「やり方」を試してみたりする。人間関係の技術とか、言葉使いを注意するとか、、
でも、それじゃ、なかなかうまくいかない。
そこで、例えば、「私はどうせ、愛される」というフレーズを口に出してみる。
「あり方」を、自己肯定する方向へ、切り替えるわけだ。
最初は、すごい違和感がある。それ何の宗教?、馬鹿じゃないの? とか思う。
いざ言ってみようとしても、ものすごい抵抗感が湧き上がってくる。わなわな、ドキドキして、頭がカーッとなって、言えなかったりもする。
それでもなんとか唱えて、ちょっとずつ慣れてくると、、
たったそれだけでも、頭の中にこびりついていた「どうせ愛されない」的固定観念が、微妙に変化し始める。
「あれ、もしかして大丈夫なのかな?」みたいな気分が、ふと湧いてきたりするようになる。
そんなのが、「心のあり方のお稽古」。
で、だ。
僕は、「体」にも、同じような「あり方」問題があると思っている。
体の、あり方。
自分の身体を、どんなものとして捉えているか、の、基本姿勢。
そこに妙な癖を抱えたまま、体のやり方(=健康法)を積み重ねても、なかなかいろんなことがすっきりしない。
だけど現実には、妙な癖のある「あり方」(身体認識)を抱えている人が、世の中に数多くいる。だから不健康な人が増える。
そんなことが現実に起きているように思うのだ。
心の「あり方」の場合は
「どうせ私なんか、愛されない」→「どうせ私は、愛される」
がポイントだった。
人間関係(愛を受け取る)において、自分を卑下する「あり方」から、「放っておいても自然にうまくいく(だけのものを私はそもそも身につけている)」と、自分を信頼する「あり方」への転換。
体の場合も同様で。
生き物の体には、放っておいても自然にうまくいく(健康な状態を維持しようとする)能力が、もともと備わっている。
生物学用語で言えば、「恒常性維持=ホメオスタシス」という働きだ。自然治癒力と呼ばれることもある。
だから、ちょっとした風邪や擦り傷ぐらいなら、たいていの場合、放っておいてもいつの間にか治っている。
「体はどうせ、勝手に整う」のである。
だけど、現代の医学に根ざした健康観では、、
体をいい状態にするために、ちゃんと考えて何かをするのが「いいこと」とされている。
例えば、ダイエットやエクササイズをしてボディシェイプをキープするとか。
栄養バランスをきちんと考えて食事をとるとか。
規則正しく睡眠をとるとか。
野放しはダメ。きちんと体を管理するのが、正解。
まあ、これらが「正しい」のは医学的事実なんだけど。
だけど、そういう正しさばかりを追求していると、、いつの間にか、「体は勝手に整う」という自分の身体への信頼感が希薄になって、
「自分の体は自分でコントロールするのが正解(しなきゃダメ)」
という「あり方」になっちゃってることが多いんじゃないか。僕はそんなふうに思っているのだ。
そして、、、こういうあり方に基づいて、さまざまな健康情報を駆使して、自分の体をうまく(都合よく)制御しよう、ってことをずーっとやっていると、、、
いずれ、その歪みが心身のバランスを破綻させる。
「コントロール欲求」が肥大して、体に任せることが、できなくなるのだ。
そんな現象が、すでに身の回りでたくさん起きている。僕は、そんな気がしている。
体の「あり方」を見直す。
多分この辺りに、自分のライフワーク的使命があるんだろうな。最近、そんなことを考えている。