先日、カミさんと一緒にライブを観に行った。
カミさんが誘ってくれたもので、彼女が最近見つけた、お気に入りのボーカリストが出演するという。
場所は横浜の赤レンガ倉庫の一角。洗練されたライブスペースで、料理とワインなどをいただきながら、おしゃれに音楽を楽しめる。
演奏は、うん、まあ、なかなかいい感じだね。
料理もOK。サービスもこなれていて、いい雰囲気である。
うん、いい時間だった。。
。。。と、ちょっと前までの僕なら、「はい、いい時間でした」っていうことで特に問題なく収まっていたと思うんだけど。。
夜、どうも肩から首筋あたりが、妙な感じにこわばっているのが気になって。
カミさんにちょっとさすったり揉んだりしてもらったけど、なかなかスッキリしない。
なんかこう、行き場のない変なモヤモヤしたものが、喉や首のあたりにつかえているような感じだ。
、、、と、ここで、ふっと閃いた。
「あ、このつっかえるような感じは、何かを我慢してるんだな」と。
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「本当は嫌だけど、我慢してやっていることを、やめる」
ここ2、3年、僕が心屋メソッドと出会ってから、ずっと心がけてきたことだ。
最初のうちは、わかりやすい「嫌なこと」がたくさんあった。
こういう仕事は嫌だ。こんな環境は嫌だ。こういうことを言われるのが嫌だ。こんな感じの人と接するのは嫌だ。あの食べ物は嫌だ。。。
こういった、見え見えの「嫌なこと」を、一つずつやめていった(もしくは「それは嫌だ」と表明した)。
そりゃあもう、一つクリアするごとに、実に爽快な気分だった。「やってやったゼィ!」って感じで。
で、、、そういうのを積み重ねていくうちに、、、、やがて、わかりやすい「嫌なこと」は、ほぼ、身の周りから一掃されていた。
それで、、だ。
そこまでいったら、僕はもう何も我慢していないのか?
というと、いやいや残念ながら、そうではなかった。
実は、そこから先の方が、よほど大変なのである。
「嫌なことを我慢してる」と自覚しながらやっている我慢は、自覚している分、まだ、扱いやすい。
我慢だと自覚していない、うっすらとした自己抑制の方が、実は、タチが悪い。
「人間なんだからそれぐらい当たり前でしょ」「社会人の常識です」などと思っているから、自分を抑えていることに、気づきにくいのである。
でも、自覚がないだけで、我慢をしているのは事実なのだ。だから、それを重ねるうちに、自分の中で何か鬱屈としたものが、うっすらと、でも確実に、積もっていく。かえって厄介なのだ。
しかも、、、ここで我慢している対象は、もはや、見え見えの「嫌なこと」ではない。
「嫌いってわけじゃないよ。好きでもないけど」とか、「どっちかといえば好き、でも、大好きってほどじゃないな」とか、それぐらいの、実に微妙な距離感の相手なのだ。
点数をつけるなら、68点とか、74点とか、そんな感じ。悪くはない。及第と言えなくもない。でも、まあ、どうだかね、、っていうぐらい。
「我慢」などという大げさな言葉を当てはめるのは、ちょっとはばかられる。でも、「大好きではない」のである。
そういう、微妙にイマイチな対象を、「まあいいか、これぐらいなら」っていう感じで、受け入れる、、、
、、、という、そこに、実にかすかな「我慢」が潜んでいるわけだ。
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冒頭に紹介した夜、そのライブで奏でられていた音楽が、まさに僕にとって、絶妙に微妙な感じだった。
いや、嫌いじゃないのよ。
、、ってさ、「いや」という否定形から語り始めてる時点でもう、「大好き」じゃないよね。
もちろん、嫌いじゃない。だから、もしあれがライブじゃなくてレストランかバーのBGMという設定だったら、我慢って感じまではならなかったのかもしれない。おしゃべりしながら聞き流していいのだから。
でも、そこはライブハウス。しかも、珍しくカミさんの方から「聴きに行こう」と誘ってくれた機会。
だから、一応ちゃんと聞く姿勢をとるわけですよ。
で、、聞いてみると、、、まあ、嫌いじゃない。
だったら、微笑みを浮かべて楽しげ風な時間を過ごすことにしよっか、、と。
まあ、、カラダって本当に、あけすけなまでに、正直で。
心底楽しかったわけじゃないのに微笑みを浮かべて過ごした時間の分だけ、肩や首の周りが詰まるようにこわばって、モヤモヤした感じになっていた。
で、、、まあ、これはもうしゃーないな、というわけで、、
はい、カミさんにこう言いました。
「今日のライブさ、微妙に、いまいちだったよね」
で、、そしたら、笑っちゃうぐらい首の周りがすーっとすっきりしてきた、のでした。。
おしまい。