前の記事でも書いたけど、、、
今年のヒモトレフェスで、個人的に最も印象深かったのが、これ。
書家の武田双鳳さんと、和太鼓の佐藤健作さんのコラボパフォーマンスだ。
地響きのような健作さんの太鼓が轟く中、双鳳さんがざくざくっと刻み付けるように筆を振るう。
太鼓の響きが止み、静けさが戻ったとき、、、
パネルには、「動」の文字が描かれていた。
なぜ「動」なのか? と尋ねたところ、「北村さんの(プレゼンの)言葉にインスピレーションをもらった」という返事が返ってきた。
そんなふうに言ってもらえるのは、もちろん嬉しい。
で、、この「動」という一文字は、「ヒモトレとは何か?」を表す表現として、実に本質的な、大切なところを捕まえているなぁ、と、改めて思い返すほどに、そういう納得感がしみじみこみ上げてくるのである。うーむ、双鳳さん、さすが!
・・という話を、今日は書いてみたい。
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ヒモトレは、身体にどんな影響を与えるのか?
いろんな答え方があると思うが、僕の実感では、「動きの“体感”が変わる」という部分が、とても大きい。
はたから見ると、関節の可動域が広がるといった客観的に評価しやすい部分とか、腰痛が消える、ギターの音が良くなる、のような実利的な変化が目につきやすい。
でも、それらは全て、二次的な結果だ。
そういう結果(アウトプット)が生じる原因として、カラダの中ではまず、動きの質が変化している。
それは実感レベルでは、「動きの“体感”の変化」として感じられる。(感じられないこともあるけど、まあ、たいていは何かしら感じられる)
例えば、両手で何か重いもの(10〜20リットルぐらいの水ポリタンクとか)を持つと想像してみよう。
タンクを両手で抱え、足を踏ん張って、ぐい、っと持ち上げる、、、
、、、という、力を込める動作の真っ最中、カラダの中にどんな感覚が生じるか、イメージしてみよう。
実は、この手の動作を、「ヒモあり」と「ヒモなし」で比較すると、、グイッと持ち上げるその瞬間のカラダの中の感じが、全く別物っていうぐらい、違うのである。
ヒモなしのときは、えいやっどっこいしょって「力」で踏ん張っている感じになるのに対して、、、
ヒモをお腹に1本まくと、まるでカラダ(胴体)の中に港湾作業のクレーンタワー骨格みたいな強固な構造物が構築されて、そのクレーンがウイーーーンって自動的に「動く」ような感じになる。頑張ってる感とは程遠いところで、動作が遂行されていくのである。
まあ、、、これは感覚の話なので、この説明だけを読んでもなかなか実感としては伝わりにくいと思うが、やればわかる。全く違うのだ。やったことがある人は、きっとこの言い方で納得してくれるはずだ。
で、、、こういう「動きの体感の変化」は、「重いものを持つ」というシチュエーションでもっともわかりやすく浮かび上がってくるので、まずその例を使って説明したけれど、もっと繊細な動作、例えば書道で筆を動かすときや、楽器を演奏するときにも、ヒモトレによって動きの中身はかなり違うものに感じられる。
双鳳さんは以前、インタビューをさせてもらった時に
「子供の頃からよく“書は腹で書く”と言われた。その感覚が、ヒモトレをしてみて初めて実感できた」
と話していた。まさにそんな感じだ。書道は全くの素人である僕も、双鳳さんの道場で「ショヒモトレ」を経験したとき、まさしくそんな感覚を実感した。
面白いことに、今回、和太鼓の健作さんにこの話を振ったところ、彼も全く同じことを言っていた。
「よく、太鼓は足で打つと言われるんです。でも、子供の頃は意味がよくわからなかった。本当にそれが実感できたのは、ヒモトレやバランス下駄を取り入れてからですね」
そう、ヒモトレはしばしば、「“動く”ってこういうことだったのか」と思えるほどの新鮮な感覚を、カラダの中に浮かび上がらせてくれる。
それを一度感じてしまうと、それ以前の動作感覚ではもう、何か物足りない。
それまでのは、力を込めていただけ。あれじゃ「動き」とはいえない。そんな感じだ。
さらに、、、話はちょっと飛躍するけれど、「カラダの動き」に伴う体感は、「ココロの動き」とも連動している。
例えば、急な物音などにびっくりしたときは、カラダがキュッと引き締まる。何かやりたいことがあってワクワクしてる時は、カラダが前のめりになって重心がつま先寄りになる。
そういった心身のつながりは、誰もがなんとなく自覚しているはずだ。
ヒモトレをすると、カラダの動きの感覚が変化する。と同時に、動きを感じ取るセンサーの感度も高まる。
このとき実は、ココロの動き(衝動)を感じ取る力も、高まっている。
カラダの動きとココロの動きが、鮮やかに、繊細に、内なる世界に浮かび上がる。
ああ、人間は、動くことで生きているのだなぁ。
やや大げさに聞こえるかもしれないが、そんな感慨さえも湧いてくるのである。