こんにちは。

 

本日は、旧約/新約時代における神との契約と、神の律法を守るべき理由について聖書から考察したいと思います。

 

まず旧約聖書と新約聖書の契約についてお伝えします。

旧約と新約の「約」は神と人との間の契約の「」を意味しています

なぜ、旧約と新約二つあるのでしょうか。

旧約時代(紀元前=BC=Before Christ)に神はモーセに人類が守るべき神の律法(モーセの律法ともいう)、掟、戒めを与えました。神が愛と正義の法である神の律法、掟、戒めを与え、人がそのすべてに従うことを、モーセが生きていた時代に神と人が契約(約束)したのです。

しかし、その掟に規定された贖罪の方法では人間の心と行いをあるべき正しい状態にすることは出来なかったので、紀元一世紀の主イエスキリストの御功績により、贖罪の儀式に関連する祭司制度やそれに関連する清めの儀式、動物の生贄、石打ちの刑等、律法の一部が廃され、神の律法が更新された(新約)ことを意味しています。

英語では旧約聖書と新約聖書は夫々OLD TESTAMENT /NEW TEATAMENT と訳されますが、TESTAMENTは聖なる契約という意味があり、他にも遺言状、証等の意味を持ちます。

 

前回記事聖書に関する誤解と正しい認識で書きましたように目に見えぬ神の存在を信じない方はいらっしゃると思います。しかし、確かに聖書には神と人は契約を結び、全人類に契約が適用されると書かれています。

即ち人種や信仰宗教は関係ないということです。

 

以下に旧約時代の古い契約について聖書より述べます。

古い契約の内容

神が預言者モーセを仲介者としてイスラエル人と締結した古い契約は以下です

 

人には、神の律法、掟、戒めを守るという履行すべき行為が有りそれらを全て守ることを約束しました。

神は、これらすべての掟を与えて、人がその掟を全て守る場合には祝福を与え、守らなかった場合には災いを与えると約束されました。

 

神の律法、掟、戒めの内容はモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に書かれており、上述したように一部を除いて現在も守るべき掟です。

なぜなら申命記二十九章十三節、十四節には以下の記載が有るからです。

わたしはあなたたちとだけ、この契約を結ぶのではない。今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者(今後生まれてくる者の意味)とも結ぶのである。

従って、神とイスラエル人及びその子孫が上述した律法を守る義務を負う古い契約を締結したということになります。

契約に立ち会わなかった後の世代(すなわち現在生きる私たち)にまで律法を守る義務を有することに違和感を持たれますでしょうか。その場合は、人が社会的に憲法を始めとするあらゆる法律の下におり、例え個人個人が各法律に合意したわけではないとしても法律を知らずに違反した場合に、罰則が有ることを考えてみると理解しやすいと考えます。

 

古い契約の適用対象者

では、この契約や律法の対象者は民族的なイスラエル人とその子孫だけに限るのか、というと、違います。

あなたたちはわたしの掟と法とを守り、土地に生まれたものであろうと、あなたたちのもとに寄留する異邦人であろうと、以上に挙げたいとうべきことを一切してはならない。(レビ記十八章二十六節 )と書かれています。

他にも、出エジプト記二十章十節に記述されている通り、安息日の規定を異邦人が守るべきであること、民数記十五章十六節からもイスラエル人と異邦人に等しい法、掟が適用されることが述べられており、律法遵守義務をイスラエル人に限らず全ての人が負っていると解することができます。

 

律法違反を犯した場合の贖罪方法

旧約時代は、律法違反を犯した場合、動物の生贄を捧げる贖罪の儀式が有りました。(詳細はレビ記参照)以下聖句の通り、律法違反(罪を犯した)場合には、血を流すことで人は清められ罪の赦しを得るという概念があります。

 

こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すこと無しには罪の赦しはあり得ないのです。

(ヘブライ人への手紙九章二十節)

 

旧約時代は罪を犯した人が自身の血を捧げるのではなく、動物の血で贖罪の儀式を行いました。自身の血でないにしても、過失に関わらず律法に違反することが、人間が考えている以上に重大なことであるという認識が出来ると思います。

続いて新しい契約について考察します。

 

新しい契約について


まず、新しい契約とは何か、以下聖句をご確認下さい。

エレミヤ書三十一章三十一節~三十四節

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると、主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。

すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心の中にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

その時、人びとは隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 

新しい契約は律法を人間の心の中に記して、彼らの神となり、再び罪に心を留めることはないという内容で、この内容はヘブライ人への手紙八章十節~十二節にも書かれてます。主イエスキリストが新しい契約の仲介者です。

気を付けるべきは、律法が廃止されたとは書かれておらず、心の中に律法を記すと書かれていることです。

エレミヤは旧約時代、紀元前6世紀のネブカドネザルによるバビロン捕囚時代に活動した預言者であり、上述の通りに主イエスキリストを仲介者とする新しい契約を結ぶことを数百年前に預言し、主イエスキリストが十字架に掛かられた後も律法は守るべき法として存在していることが分かります

 

新しい契約の適用対象者

古い契約の適用対象者がイスラエル人と外国人に適用されていたことから、新しい契約も同様に全ての人が対象であると解されます。
ヘブライ人の手紙七章十二節にこう書かれています。
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更が有るはずです。
この聖句では旧約時代の祭司制度が廃止され律法に変更が生じたことが述べられている通り、旧約時代の律法については、マタイによる福音書五章三十八節、ヘブライ人への手紙七章十二節、九章九節、十三章九節等から、祭司制度、洗い清めの儀式、動物の生贄、石打ちの刑、食物規定に変更が生じたと解されます。
一方、新しい契約の適用対象者に関しては、新約聖書内に変更の記載はないので、全ての人が依然として対象であると解されます。
また、使徒言行録の記述にもそのことが記述されていることも参考になります。

どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(使徒言行録十章三十五節)

律法違反を犯した場合の贖罪方法

現在律法違反を犯しその罪の赦しを得る為には、動物の生贄を捧げるのではなく、以下の通り悔い改める(律法違反の再犯をしない)ことが求められています。
 
そして、その名によってすべての国民に悔い改めと罪の赦しが宣べ伝えられるであろう、それはエルサレムから始まる。(ルカによる福音書二十四章四十七節拙訳)
 
何故、動物の生贄を捧げる儀式が継続されなかったのでしょうか。
それはヘブライ人の手紙十章一節~四節に、動物の生贄を捧げることは神に近づく人を完全にすることが出来ず、むしろこれらの生贄を捧げることによって、罪の記憶がよみがえり、根本的な罪の意識の除去には至らないからだと書かれています。動物の生贄を捧げることは贖罪としての解決案として相応しくなかったということで、主イエスキリストが一度だけ十字架に掛かって下さり全人類の罪を贖って下さいました。(ヘブライ人の手紙七章二十七節~二十八節ご参照)
 
律法違反=罪の赦しは血を流すこと以外にあり得ないと聖書には書かれていると前述しました通り、神である主イエスキリストが人間の体をもってこの地に来られ、生涯律法違反を犯さず穢れない状態で十字架に掛かり血を流されたことで、全人類の罪を贖って下さり、現在も人の悔い改めを待ち望み罪を赦す働きをしておられます。しかし、人が悔い改めを拒んでいては、永遠に律法違反の罪を赦されるわけではないので、人は速やかに悔い改めを実行するべきなのです。十二使徒のヨハネも次のように述べており、主イエスキリストこそが全世界の罪を贖う神です。

この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を贖う御方です。

(ヨハネの手紙一 二章二節 拙訳)


今、我々が知らずに律法違反=罪を犯していながら生きていられるのも、主イエスキリストによる罪を贖う恵みの下におり、その恵みを多数の人は知らずに生活をしている状況です。だからといってその恵みに甘えて罪を犯し続けてはいけません。

 

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後に、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪の為のいけにえは、もはや残されていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者達を焼き尽くす激しい炎とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて情け容赦なく、死刑に処せられます。

(ヘブライ人への手紙十章二十六節~二十八節)

                   

悔い改めなければ皆同じように滅びる。(ルカ十三章五節)

 

この滅びについては、ヨハネの黙示録二十一章八節に書かれている通り、不信仰な者や各種律法違反を行う者達に対する報いであり、火と硫黄の燃える池であり、肉体の死後の第二の死です。

 

纏め

以上に述べたことにより全人類は現在も律法の下にいると考えられます。パウロは律法下にいないとローマ六章十四節で述べており、明らかに聖書全体の記述と反する内容を述べたことに注意するべきです。
上述したようにヨハネの黙示録二十一章に不信仰者と律法違反者の報いが書かれているからです。
主イエスが十字架に掛かって下さり、現在も人の罪を許す働きをされていることに恩を感じて、新しい契約を結ぶ決意をして、神への愛によって律法を守ることで、神が真理の霊(=聖霊)を人間に送ってくださいます。(ヨハネ十四章十五節~十六節三章三章)
 
ヨハネ十四章二十六節
弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こしてくださる。
これが、エレミヤ書に書かれていた、人の心に律法が記されるということの意味です。
 
聖書は自分には関係無いと思われず、何事も自分の発想や周囲の常が正しいか、見直して頂くことを推奨いたします。

自分自身が確りと腰を据えて追及することで、人は成長はしていきます。

新たな挑戦には勇気がいりますが、この記事を読んで下さり、聖書を読み、信仰に入り悔い改めの日々を送るきっかけになれば幸いです。