天から降ってきたパンを集める
こんにちは。今回は天から降ってきたパンを集めると題して書きます。まず、先月の話ではありますが、こちら(MSN)のように、政府地震調査会の平田直氏が、能登地震に関連して、「大きな地震数カ月置き、経験ない」という趣旨の発言をしました。現状の能登の復興状況はどうなのかといえば、こちら(ビジネス+IT)は太陽暦二千二十四年七月の記事ではありますが、震災から半年程たってもほぼ復旧が進んでいない様子が書き記されていたり、こちら(全日本民医連)(十二月の記事)では、復興が遅れている理由分析(第一に県の地震被害想定が甘かったこと、第二に職員の数が減らされており、被害対応に人員を割くことが難しいこと、第三に住宅の耐震化が進んでおらず被害が大きかった)がされています。また、こちら | 長周新聞によれば、熊本地震、東日本大震災、新潟県中越地震、阪神・淡路大震災等の大地震の時に迅速に補正予算を組んだのとは異なり、当時の岸田内閣は補正予算をつけない(能登地震の予備費は、災害対応に限定してつけられているものではないとのこと)上、財務省の考え方として、「費用を勘案して、居住地を考慮せよ」、と復旧ありきではない発言をしたことも記されています。また、今に始まったことではありませんが、災害時に私有財産の形成に寄与する公的支援は原則行わない方針であることも記されていました。しかし、復旧という単語の意味からすれば、災害被害にあった人達が、住める場所が確保され安定した状態にまで戻らないと到底、復旧とは言えません。このように能登復旧の遅れが生じている考察がある中、こちら(X)のように、山本太郎氏が、能登復興を急務として瓦礫の撤去を行うように石破総理に詰め寄っている動画も拡散されています。そのため、庶民の気持ちに寄り添ったれいわを支持しようとしている人もおられます。ただ、約一年もたってその議論がされていることには、いち一般人の感覚として進捗の遅さを感じずにはいられません。れいわがこうして自民党に敵対するのも、国民の不満の解消先の一つであり、時間稼ぎをするだけの劇場型のやりとりであり、国会議員を味方と思って信用してはいけません。こうした現状を国民はどのように捉えているのでしょうか。こちら(X)を読んでみると、現在の能登の復旧状況を肯定的に捉えている方がいました。この方によれば、現在の復旧対応で必要十分であり、復旧が遅れているように見えるのは、被災した市町に通ずる道が震災により寸断されてしまっている為という趣旨の発言をしています。罹災した人であれば少しでも早い復旧を願って工夫を考えるはずが、工事は遅れていないし予算も足りていると現在の復旧状態を擁護している何とも不可思議な反応です。かたや、れいわ支持者の方は、復興予算をつけるよう要請しているのは、れいわだけという理由で、反論されています。復興予算のつけ方は従来よりも渋っているのは客観的事実でありますが、このように国に向くべき批判が、庶民同士が敵対していては、悪魔崇拝者らの分断統治の作戦が奏功していることになります。そういう意味で本当に政府信者や工作員の存在は庶民に敵対するろくでもない存在であり、「分断統治」の例については、イギリスの伝統的な植民地統治手法である「分割統治」とは | 歴史逍遥『しばやんの日々』のブログが纏まっていますので、よろしければご参考ください。また、能登の災害対策本部委員会会議録(八月二十一日付)が、0821siryou2.pdfで御覧になれますが、地震発生と同時に石川県が災害対策本部を立ち上げているのはおかしいです。震災が大きければ災害対策本部立ち上げを即決するのは当たり前だろとか、震災が起きた時に災害対策チームを作るのは決まりです、とかいう人もいるかもしれませんが、普通に考えて、地震が起きている真っ最中にはまず自分の身を守ることに徹するはずですし、予め被害の大きさを想定出来ていなければ、地震発生と同時に対策組織が作られるなんてことはありえないです。災害対策本部が立ち上がる日時として嘘を記述していないのならば、予め地震が起こることを知っていたと考えてもおかしくはありません。それと石川県に近接する県も地震発生と同時に災害対策連絡窓口を立ち上げていますので、主要な県の上層部では大損害が発生する地震が起きることを予め知らされていたのであろうと推測出来ます。過去、真氏がこちら(X)で指摘されているように、能登に十五分都市を造設するために意図的に政府が復興支援、早急な復旧を渋っている可能性があることを忘れてはいけず、本質的には先に紹介したような道が狭いから復旧が遅れているようにみえるとか、れいわだけが補正予算を組むよう要請している等と競り合うのではなく、人工地震が起こされていることを疑ってそこを詰めないといけませんし、人工地震であれば、起こした者達に損壊からの復旧費用を全て保障させるのが道理です。もう一つ、ワクチン関係の話題では、先日、被害者遺族の会が主催する厚生労働省前の抗議街宣がありました。以下にXでの石井氏の発言を紹介します。 厚労省街宣に行ってきた。 福祉施設の女性の話がものすごく泣けてきて、ウイルスが存在しないことがもっと多くの人たちに知れ渡っていたらワクチン打たなくて済んだのにとつくづく思った。 厚労省だけじゃなくウイルスが有るとか言ってる連中も悪い。… pic.twitter.com/n0rrjrTMYS— 石井一弘(カズ 裏コロナHP管理人&裏コロナの本 著者) (@kazu_uracorona) December 13, 2024厚労省前に集まった人達は、数にしておおよそ百人程度だと思います。現在の日本、そして平日にしては多い人数の抗議者が集結しました。(一般人で構成される抗議活動は、数人から多くても十人超えの状況。)本抗議活動では、長尾氏や林千勝氏等も発言されたとのことですが、厚労省から出てくる人達の様子は他人事です。尚、長尾氏は、日本人の問題点 四 | 真の聖書福音と預言で指摘されているように、「庶民の味方の振りをするガス抜き工作員」の可能性が高く、ワクチンによる被害を声高に周知したいと思って入会している人達やその会に期待を寄せている人達は、被害者遺族の会の集団訴訟や抗議に工作員と思われる人物が関わっているという現状を忘れるべきではないと思います。なぜなら集団訴訟や集団抗議の結果に期待させるという役割をもっているからです。その人達に期待するだけではいい結果は生まない可能性が高いです。こうした訴訟や抗議活動には、関係者等だけではなく、ワクチンに懐疑的な一般人が積極的に参加したり、コロナウィルス等というものが存在しないという点を勉強して確信をするべきだと思います。それをしなければ、いつまでもウィルス脅威論とワクチン脅威論を天秤にかけられる結末を生む為です。今の日本では、人気ラーメン屋や芸能人を見る為には大行列を成して多くの時間がかかってでも行く人は沢山いますが、このような数時間の抗議にはほとんどといっていいほど、人が集まらないのが現状です。そもそも知らないか、いずれ何とか収束するであろうと高を括っているのか、他人の事等知ったことではないと興味が無いか、抗議等意味が無いと諦めているのかだと思います。しかし、参加者の数が多ければ、少なくとも道端を歩く無関心な人達や権力者も危機感を感じたり、何事かと思い無視を決め込むことはできづらくなるのではないでしょうか。ネットやSNSで言うだけであれば多くの人がやっています。しかし、実際に人を動かすように働きかけたとしても、現実社会で動く人は非常に少なく、無関心や無行動が、世を悪化させている現実があります。誰にでも小さく始められることはあるはずで、優先事項を考えるべきだと考えます。ワクチンを日本人に接種させることは日本人の数が減っていくことに直結(令和五年は年間約850,000人の人口減少、令和六年分はまだ集計されていないが、令和五年と同じかそれ以上になると思われる。また、ワクチン接種事業が始まった令和三年から人口減少度合いが激増している)しますから、反対行動をとる一手です。能登の復旧が進まず、生活に苦しんでいる人がおられ、また、ワクチン薬害に全く耳を傾けない政府に苦しめられている人もおられます。こういう災難を見て、人には頼れない、やはりいざという時にそなえて貯蓄しているお金や物資が沢山あるに越したことは無いと思われた方や、実際に被害があっていなくても震災の備えをしておかないとと考える方もおられると思います。緊急用として、震災の備えをしておくことは問題無いでしょう。一方では、人間には明日何が起きるのかは、分からない、保証が無いです。震災や戦争に巻き込まれ、今までの蓄えが一瞬にして無に帰す可能性がありますので、過度に自分の為に金銭や食糧を備えることは、不要であると言えましょう。現実社会を充実させることが人生の以下の聖句が今後の生き方として適切だと思い、下記致します。そして、一同に言われた。「貪欲さに注意を払い、用心しなさい。人の命は富の余剰の中にはないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思いめぐらしたが、やがていった。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言おう。「さあ、これから何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰の物になるのか』と言われた。自分の為に富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。(ルカ十二章十五節~二十節参照)こちらの聖句では、いかに金銭や食糧を貪欲に蓄えても、人は救われないことが示されています。貪欲の意味については、以下の通りです。非常に欲が深いこと。むさぼって飽くことを知らないこと。また、そのさま。(goo国語辞書より引用)欲の意味は不足を感じてこれを満たそうと強く望むこと。(goo国語辞書より引用)と書いてある通りです。単語の意味からは、貪欲の原因は世俗生活の中で不足に感じている事に対して欲深く満たそうとする心の動きにあると言えそうです。なぜ必要以上に欲深くなってしまうのかですが、聖書では、マタイ十三章二十二節に記述されている信仰の実が実らない原因として挙げられているこの世における不安、富の欺きだと思われます。即ち、これらの影響を受け続ける故、貪欲さを克服することは信仰を持たない限り、絶対に出来ないです。貪欲さをもって不安を持ちながら生きて、死後に主イエスの御命令に背いたことで地獄行きになったらなんの意味がありましょうか。一つの具体例を挙げると、有名な大富豪であったジョン・ロックフェラーは、莫大な資産を持ちながらも、記者から「あと、どれくらい、お金が欲しいですか。」と問われ、「あともう少し欲しい。」と答えたといいます。この返答からは心の中に不安があることが露呈していますが、この発言が出てきたのは、まさにこの世における不安や富の欺きによるものと考えられます。故にこの世で生活する中で、世における不安や富の欺きの回避を優先すべきで、優先順位に対する実行力が大切であることは間違いありません。上記に記した聖句の通り、主イエスが貪欲に気をつけよと仰っていますから、貪欲は貪欲でも、その欲の種類は色々ある(食欲、性欲、金銭欲、名誉欲、支配欲)ので、どのような欲が強いか自己点検を行ったり、不安の元となる世俗の問題解決(自分で出来る範疇のこと)に努め、欲望の自制を行う手段を考え自制をしたり、気を落とさずにたえず祈らなければならない(ルカ十八章一節参照)と書いてあるように、神に祈りを捧げることが大切ではないでしょうか。祈りを捧げることは、神の御前に身を低くし、罪への赦しを願い出たり、心の中にある思いを正直に述べてその実現を願う行為です。祈りの重要性、目的については、ゲツセマネの祈り | 真の聖書福音と預言を御参照下さい。 自分の身を一番に考え、肉体的、及び精神的苦痛を回避したがるというのは肉の思いでもあり、肉なる存在としての本能でもあります。いくら神の御子である主イエスといえども、受肉された人間として地上に来られて人性を持たれていたので、肉の思いをお感じになったのです。即ち、私たちが考えるような考えが頭をよぎったのです。それが、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)という御言葉から窺えますが、その直後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と仰り、肉の思いを打ち消されました。要するに、肉の思いという誘惑に負けず、神を信頼し尽くすということです。この誘惑というのは、信仰から脱落する試みのことを指します。信仰が試される時にその信仰故に発生するあらゆる苦痛を回避することをしてはならないということです。それを回避する、即ち、逃げることが誘惑に陥ることであり、つまずくことを意味します。そういう訳で、イエスは、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マタイ26:41)と仰いました。これは、地上を生きる人間の本性である肉の思いから来る誘惑に陥らないようにという意味です。もしイエスが十字架の死を回避したならば、全人類の救いが成し遂げられませんでした。この時、イエスは人性から来る御発言をされましたが、それに負けることはなく、天の父なる神の御心を想い、信じて従順でした。しかし、三人の弟子たちは、誘惑に陥ってしまい、眠りました。これは、主イエスに従うという霊的思いよりも、眠気という肉の思いに負けていることから分かります。つまり、私たちの信仰生活においても、主イエス・キリストに死まで従順に従うと決心していても、肉の思いには容易に打ち勝つことができないということです。~中略~ 弱い姿こそが肉なる人間の姿や。天の父なる神と主イエスは、人間を愛してはる。しかし、肉の思いに身を任せて眠った状態で、目を覚ますことがなければ、神から見放されてまう。正確に言えば、神が救いの手を差し伸べているのに、人間の方が拒否してるんや。上述のように、霊的に目を覚ましていなければ、たちまち肉の弱い性質、罪深い性質に取り込まれて誘惑に陥り、罪を犯し、滅びる。それを克服するために、祈りが必要になる。聖書にこう書いてあることを知らんか。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らねばならんことを教える」(ルカ18:1)、「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よう祈りなはれ。」(ペトロ一4:7)のとおりです。肉の思いに従う状態が続いている場合は、ミカエル氏の記事に書いてある通り、「肉の思いに身を任せて眠った状態で、目を覚ますことがなければ、神から見放されてまう。」非常に危うい状態に陥っていると気付かないといけません。これは死後の永遠の運命が決まるということで、死後の世界を信じる人にとっては、肉体の一時的な死よりも致命的な問題ではないでしょうか。これは主イエス御自身が「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところに行くか、あなたは決して分からない。」(ヨハネの黙示録三章三節参照)と仰っていることそのものです。ミカエル氏が聖書から外れた自論を述べているわけではありません。肉の思いは沢山ありますが、わかりやすい例としましては、先にラーメン店に行列を作る人達の行動例を示したように食に対する欲求が思い浮かびます。テレビ等でもグルメ番組も多く報道されていて、美食への追求心については一般的には罪悪感が湧きづらい領域です。また、悪魔が主イエスに対して、石をパンにかえてみろと挑発して食に対する貪欲さが無いかを試したことからも人の食への欲求は強いことが分かります。また、出エジプト後に、イスラエルの会衆に加わっていた民族とイスラエルの人々がエジプト滞在時に食べていた肉、魚、きゅうり、メロン、ネギ、玉ねぎ、にんにくを欲する場面があり、魂が枯れてしまった(気力が出ないと同義であると思われる)と泣き言を言っていたのも食への欲からです。(民数記十一章四節、五節、六節参照)この当時の会衆たちの苦情は、現代人が高級料理店を予約したり、人気店に列をなして美食を追求したり、その他諸々の娯楽や快楽に身を委ねている人と比較して考えれば、貪欲さの程度としてはかわいく思えるくらいです。ただ、旧約時代はそのような泣き言を言った民達は、神によって滅ぼされました。不信仰であった為です。現在も不信仰であってもすぐに肉体的な死には至ることは無いのでしょうけども、油断してはいけないでしょう。いくらかの人が悔い改めるようにと、神が忍耐されておられるだけだからです。(ペトロの手紙二 三章九節参照)今回は、貪欲さではなく、信仰を優先するべきという点で、民数記から学べることを以下に記します。〇肉の欲の追求は神への不信仰の象徴であり、人々はいずれ行いの報いを受けるエジプトから民を連れ出したモーセは、彼らの食に対する苦情を聞く一方、神が食に対する苦情を聞き怒りを示されていることの間に立ち苦しまれました。(民数記十一章十節)不信仰な人であれば、民が食事のことで不平をいうことくらい大目に見てもいいのではないかと思ってしまう場面ですが、神の鍛錬を拒む行為は神を怒らせる行為です。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネによる福音書三章三十六節参照)と洗礼者ヨハネが述べた通りです。この聖句だけでも「信じる」ことは、心の中で信じるだけではなく、神に従うという具体的な行いが必要であることが分かりますね。大勢の人々の食欲に火がつき、モーセでさえそれを沈静化させるのは非常に困難でした。実際、人の強烈な食欲に歯止めをかけようと他人が我慢せよと呼びかけても、最終的には、本人が気付いて自制するか、食べ物を食べるしか食欲を抑える手段は無いのではないでしょうか。神は、モーセを通じて民の食への苦情を一旦はお聞きになり食料となる沢山のうずらを宿営の近くへと送られました。民の苦情に苦しむモーセをお救いになる意図や民に対して神の力を改めてお示しになり、その反応を見る意図があったと思われます。うずらの到来を見た民達の反応は、二日間を通して10オメルにも上るうずらを集め続けたということです。神が食糧となるうずらを与えてくださったことへの畏敬や感謝の念は脇に置かれ、不信仰であることが露呈したのだと思います。なぜなら、うずらの原語は、「安心する」、「気楽な」等が語源となっているようで、うずらが民達の信仰に対する油断や世俗のことで安心することを暗示しているようにみえるためです。ところで、民達が、食事に関して苦情を言うのは、これが初めてではなく、出エジプト記十六章三節にも記載があります。我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あのときは肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた。あなたたちは、我々をこの荒れ野に連れ出し、全会衆を飢え死にさせようとしている。」とモーセとアロンに苦情をいった場面です。しかし、この苦情に対して神はモーセに次のように仰いました。わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに話して伝えよ。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。夕方になるとうずらが飛んできて、宿営を覆い、朝には宿営の周りに霜が降りた。この降りた霜が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄く壊れやすいものが、大地の霜のように薄く残っていた。(出エジプト記十六章十二節~十四節参照)空腹に対する解決策として神は肉(うずら)とパン(マナ)を提示されて民の苦情を聞き入れておられます。霜のように薄く残っていた物をイスラエルの人達は、マナと名付けました。この旧約時代のマナが天から降ってきたパンです。マナは出エジプトやマナという食を知らない子孫達が、その存在があったことを後から認識できるよう、一オメルの分量のマナをを壺の中に入れ、神の御前において蓄えておくようにと、神は要請されました。(出エジプト記十六章三十二節~三十三節参照)マナの壺は以下の画像の通りです。マナの壺の形状は、仁徳天皇陵そのものであり、古代イスラエル人が、日本に到来した一つの証拠になるであろうとも思います。画像引用:https://ameblo.jp/makioka-nature-club/entry-12726651348.html天から降ってきたパンについて、新約時代には主イエス御自身が、神のパンは、天から降って来て、世に命を与える(ヨハネ六章三十三節参照)と仰り、また、私(主イエスのこと)がその命のパンである(ヨハネ六章三十五節参照)と明言されました。ここで出エジプト後に、神が天からのパンだけではなく、肉としてのうずらも民にお与えになった意図が何か考えないといけないのかもしれません。マナに関しては、一人一日当たり一オメル(約二リットルの分量のようです)を集めるよう指示がありましたが、うずらに関しては、集める分量に関する指示は何もありませんので、命に繋がるパンを集めることを選択する(信仰を選択する)ようにと神が仰っているようにも考えられます。しかし、民数記で記述されている通り、食べ物としてマナばかりの生活に苦情を言い出した民達は、二日間で最低でも十オメルの分量のうずらを集めたのですから一日あたり必要になろう分量(マナの場合)の約五倍を集めていたことになり、その貪欲さ(不信仰の程度が強い)がわかります。また、与えられた肉は、なぜ牛や羊等ではなく、うずらという鳥類であったのかが気になります。先に書いたうずらの原語の意味にその背景を見出すことが出来そうです。また、新約聖書に種を蒔く人が種まきに出て言った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(マタイ十三章四節参照)と書いてあり、この道端に落ちた種を鳥が食べる例の説明として、だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪いものが、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端にまかれたものとは、こういう人である。と記述されていますので、ここでいう「鳥」は、悪魔であり、御言葉を悟らない心の悪さを象徴していると考えます。また、あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満足する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。と神が仰ったことからは、民達がうずらを集めたことが、以下の聖句も考慮すると、闇を好んだ行為を示しているようにも思われます。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。(ヨハネ三章十九節参照)以上の点から、うずらという鳥を大量に集めた事は、信仰に対する不満(不信仰の選択)という象徴的な出来事と考えられます。神はいいものと悪いもの双方が必要であるとしてお与えになりましたが、よい方を選択するようにと指南された上で、人間がどちらに重きを置くかをよく御覧になっていたということが分かります。そして、悪い方を選択する不信仰な態度に対しては、非常に厳格な裁きがなされたことが分かります。旧約時代の厳しさについては、罪への正しい認識と愛の重要性 | 真の聖書福音と預言で言及されている通りです。 旧約聖書を読めば分かるとおり、「第七の月の十日は贖罪日」(レビ記23:27、25:9)とあり、主イエスが地上に来られる前はこれが守られ、その日は仕事をせず集会を開いて苦行(断食)をしており、苦行(断食)をしない者は民の中から断たれ(レビ記23:29)、仕事をする者は民の中から滅ぼす(レビ記23:30)と書かれています。旧約時代は、このように厳しかったのです。ただし、旧約時代に限らず、新約時代においても、本質的に父なる神、主イエスは信仰に対して厳格な御考えをお持ちですので、そこは理解を誤らないように十分気を付ける必要があります。以下聖句を御覧ください。また、別の人にも言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスは、その人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカ九章六十二節)この聖句に記されている鋤に手をかけてから後ろを顧みる者が、旧約時代の民達が、一度信仰に入った後に、エジプト時代の食事に思いをはせて信仰から離れ去った様子と重なります。主イエスは信仰よりも世俗的生活を懐かしんで世俗中心の生き方に戻ってはいけないと仰せであり、旧約時代と本質的にその戒めは一貫しています。主イエスが十字架に架かって罪を贖って下さったので、人間はもはや律法を守る必要が無いとする、神の律法廃止論は聖書から完全に逸脱しています。鋤に手をかけてから後ろを顧みることについて、人生の過去と主イエスに従う覚悟 | 真の聖書福音と預言に書いてありますので、御参照頂ければ幸いです。 鋤に手をかけるとは、信仰に入ったことを意味します。信仰に入った後で、やっぱりやめたとか、主イエスに従いきれませんと言うのは神の国に相応しくないので、天の国に入れないのです。よく考えてみれば当然のことと思いませんか。天の国は、主イエスが王として統治される所であり、その王に従えない人が入ることを許されるはずがありません。主イエスに完全に従えないのに、天の国に入って主イエスと永遠に過ごせると考える論理は何でしょうか。主イエスが、神に従順でない人間を御自分の御国に迎え入れると本気で思っているのですか。にわかクリスチャンはこれが分かっていません。地上で生きている間は、神の掟や律法に従わずに好き放題にしていて、一応クリスチャンだから死んだら天国に入れてくださいというのは傲慢極まりないと思いませんか。何故、そのような態度で天の国に行けると思っているのか不思議でなりません。信仰の薄いにわかクリスチャンたちよ、今すぐ悔い改めなさい。他にも、「『明日から悔い改めれば大丈夫。』というのは悪魔のささやきである」、「あなたはこれまでの人生経験だけで、当然に明日があると思っています。しかし、それは幻想です。あなた自身の命はあなた自身で維持しているのではないからです。例えば、あなたがある日の昼にある罪を犯したとして、明日から直そうと思ったとして、その夜に突然死したり、不慮の事故で死んだらどうしますか。悔い改める前に死んだことになります。」、「失敗は必ず教訓にしなさい。それは神があなたに与えた教訓でもあるのです。」等、聖書を基にした貴重な記述があります。旧約時代も今も、神への信仰を中心とするか、世俗生活を中心とするかどちらかしか選ぶことが出来ないのは、不変であり、またその行いに応じて返報があることもまた、不変です。取返しのつかない返報を受ける前に、この世で人生を楽しむという考えを選択するのは、明らかに間違いであるということに気付いて、正しい生き方を目指す必要があると思います。〇信仰生活に入った後の脱落は赦されない、しかし、脱落しているかどうかは自分では分からないため、油断は禁物である上記で書いたことと関連することですが、律法を授かってからというもの、一年間程度の間で信仰は長続きせず、離脱したことを表していると考えます。この時、エジプトを出国してから、二年目の第二の月にシナイ山を出発してほどない間で、民がこのような強い不満を発していたことが分かります。シナイ山で十戒を含む律法を授かってから、一年も経っていなかった時の話でした。うずらは神が許可して送ってくださった食べ物ではありますし、それを隣人達も集めている中で、同じように多く集めたことをもって、多くの人はまさか自分達が滅びるとは思ってはいなかったと考えられます。発端は、異邦人が泣き言をいい、またイスラエルの人々も泣き言を言った食事に対する不満を述べているのですが、実際は、この不満には本人達が気付かぬ部分で神の鍛錬に対する反抗心からの信仰の放棄(肉の思いの優先を決断していた)があったのだろうと考えられます。しかし、信仰生活からの脱落如何やその結果生じる裁きを本人は予め知ることは出来ません。信仰に入って途中でその生活に不満を抱いたり、安直に苦情を述べたり、油断することが、神への立ち返りの道が断たれる可能性を生む教訓になっていると思われます。「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところに行くか、あなたは決して分からない。」(ヨハネの黙示録三章三節参照)と主イエスの戒めが、ここでも思い浮かびます。選ばれへん人は神の御言葉を理解しない | 真の聖書福音と預言の記事で記載されていることを以下に抜粋致しますので、是非心に留めてください。 信仰には継続性があるかが非常に重要であり、たった数週間、たった数か月、たった一年、たった二年等と短い期間で脱落する人も実際に居る。当ブログ読者はどうか。投稿者を見てみれば一目瞭然で、継続性が無い人が多い。一時的に興味を持ったが、すぐに飽きるか、時間が経つにつれて次第に情熱が失われ、結局は信仰を棄てて世俗の方に傾いてしまう人が多数というのは事実や。せやから、主イエスが教えはるとおり、キリスト道は狭い門で狭苦しい道なんや。黙示録二章十節に書かれてるとおり、キリスト者は死まで主イエスに忠実でなければ救われることはない故、途中脱落はあかんし、最初から諦めるのもあかん。初めから諦めてては道は開かれへんさかい、自分の永遠の命運を左右するんやという覚悟を決めてから来るべきやと言うておく。〇大衆の感情や欲望は伝播しやすい為、それを防ぐために神は人を選別された民数記十一章四節には、民に加わっていた異邦人達が訴えはじめてから、イスラエルの民達も信仰に対する態度を翻して、食に対する泣き言を言い始めたように思われます。なぜなら、イスラエルの民達の態度を示す動詞がsequential imperfect(連続未完了)であり、おそらくは会衆の中にいた異邦人が、食に対する不満を述べ始めたことを起点として、食への欲望がイスラエルの民達に伝播・増長してしまったと考えられるからです。そこで、神はうずらを送ることで、貪欲な人々(不信仰な人々)とそうではない人々(信仰のある人々)を選別され、貪欲な人々を裁かれ、信仰ある人々に悪影響が広まらないように計らわれたのだと思います。それ故、この事例は、共同体として生活を伴にしたり、思想を同じくする人達は、出来る限、厳選され、構成者を選び周囲への悪影響が出ないようにするべきだという教訓になっていると思われます。この点について、断食についての問答 | 真の聖書福音と預言より、以下を抜粋致します。 真のキリスト者がユダヤ教徒やファリサイ派のパウロ教信者どもの集まりに行こうものなら、問題が起こり、どちらも駄目になって滅びるだろうと言われてる。つまり、真のキリスト者は、にわか信者と決して交わってはならんということや。この教えは確かに正しい教えと拙者も同意します。中途半端な人やおかしな人が混じってると、場を汚すことになるさかい、そないな人を取り除く必要性がある。人は、悪い方向に行くんは非常に簡単やが、ええ方向に行くのは非常に難しい。一人でもおかしなのが居ると、全体に悪影響が出るさかい、集まる人を慎重に選び、また管理する必要性があることが分かる。そして実際に拙者はそうしてる。 人は悪い方に行くことは非常に簡単であるが、いい方に行くのは非常に難しいというのは、正しく、人が人に影響するのは間違いないため、組織の構成員は正しい人で構成されていることが望ましいです。キリスト者は、互いに愛し合うようにと主イエスによって命じられていますから、神のイスラエル教会 / お問い合わせ | キリスト道をお読みになって検討をされてみてください。また、信仰に限らず、昨今、以下ツイッターで紹介されているように、イスラム教の異邦人が土葬を認めるように声高に主張し、それを認める知事もいます。また、クルド人の暴動に関する報道もよく目にするようになってきました。このように、日本文化や規律を乱す人々の不平不満を放置しておけば、他の異邦人が便乗して日本に対する要求を助長させたり、日本人の中でもそれくらい大目に見てやればなどと無責任な議論が展開されたり、周囲の士気に影響が出て益々日本の治安が悪化することが予想されます。旧約時代の例や、今の時代の例から、「悪事を放置すること」が悪いことであると分かります。冒頭でワクチン被害遺族の会の抗議活動の点で述べましたように、悪い行動を阻止しようと動く一般人が増えない限り、日本政府や地方自治体が自分達の行いの非を認めることは決してないでしょう。 誰かコイツをなんとかしろ! 【は?】宮城県の村井嘉浩知事は、土葬が可能な墓地を県内に設ける必要性に言及。「外国人が増えていくと、結婚して家庭を持つ人もいる。日本人でイスラム教に改宗し、土葬を望む人もいると思う」 | jnnavi https://t.co/B7Kg0jWdm3— まったりくん®︎ (@mattariver1) December 30, 2024〇他者との競争心への戒め貪欲であるということは、対価を必要以上に求める姿勢であることです。民のうずらに対する貪欲さから、神が疫病を送って打たれた場所を神はキブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と名付けています。(民数記十一章三十四節参照)この貪欲の意味を示す原語אָוָהはその意味の通りですが、この単語には、他人のものを欲するという意味もあります。民数記十四章三十二節からは各人で収集したうずらの数が異なっていることが分かるので、隣人と競うようにして集めていたのではないかと推察されます。現代人も世俗に関連することで競うことが多く(例えば、昇進、役職争い、富の争い、学歴や成績争い、外見比較、派閥争い、その他スポーツ関係での競い合い)、何にしても競争の様相を呈しており殺伐としています。民数記は、隣人と争い一番大切な信仰を見失った結果、滅びに至ることのないようにという教訓になるのではないでしょうか。話は冒頭の世俗の話題に戻りますが、能登震災の復興を巡って意見対立に終始している場面から、復興よりも、議論の勝敗が目的になってしまわないように気を付けるべきだと感じました。また、ワクチン被害者の会の各構成者の方がどのように御考えかは分かりませんが、ウィルスの存在根拠が無いという認識が無い中で薬害集団訴訟が進められているように見受けられます。ウィルスの存在根拠が無いことは由々しき問題ですが、それを現時点ではどうでもいいとか、一般の人には分からないのでそのような議論はするべきではないという内々の争いがあります。しかしそれが問題の本質的な部分なので、そこの理解を腑に落として議論は進めていくべきだと思います。目的は、政府の悪事を改めさせる為に最適な追及をするべきだからです。重要な部分の議論を阻む人がおり、庶民同士の議論の争いに展開され、話が明後日の方向へと進んでしまうのは悲しいことです。他者と無用の争いをせず、貪欲にならず、最も大切なことを見極めることを常に気を付けていなければなりませんね。今回は天から降ってきたパンを集めると題して、記事を書きました。最後までお読み頂きありがとうございます。