紅渡と木場勇治が好きな人間による、2人とキバ第1話に関する妄想解釈記事です。
仮面ライダーキバ第1話に登場する怪人はスパイダーファンガイアとホースファンガイアの2体でした。
スパイダーファンガイアはキバと出会わず生き延びるので、
キバと直接戦い、倒された実質最初の敵はホースファンガイアです。
そもそも第1話で最初に戦い倒されるのが馬の怪人というのが珍しいですよね。
平成ライダーは昭和ライダーのオマージュからか、昭和ライダーの初期怪人モチーフの敵を作品冒頭に持ってくることが多いです。
初代仮面ライダーの最初の敵が蜘蛛男、次の敵が蝙蝠男。
同様に平成ライダーでも最初の敵は蜘蛛、2番目の敵に蝙蝠という例が多く見られます(これに当て嵌まらないアギトや555もV3やXの初期怪人とモチーフを被らせているのだとか)。
仮面ライダーキバの1話アバンに登場するのがスパイダーファンガイアなのもこの例に倣っているのだと思います。
ですがこれは倒されず、次に出てくるのがホースファンガイア。
キバ自身が蝙蝠=吸血鬼=ファンガイアの鎧でもあることを考えると「2番目に蝙蝠」の様式は主人公のキバによって満たされたとも取れますが、本編に登場するのはキバよりもホースファンガイアが先です。
(ホースファンガイアより先にキバの人間態である紅渡が登場するので、渡がこの様式を満たしていると取るとしても、それでもやはり特殊な例です)
ふと、馬の怪人を持ってきたことに何か意味があるのだろうかと考えました。
ところで平成ライダー、特にキバまでの第一期で「馬」と言ったら、何を連想するでしょうか。
多くの方が555のホースオルフェノク=木場勇治を連想するのではないでしょうか。
仮面ライダー555におけるもう1人の主人公とも言えるであろう人物・木場勇治。
自分が555で最も好きな登場人物でもあります。
そもそもキバがそれまでの平成ライダーで最も近い作品は555だと思います。
人間と怪人の差別、対立、共存。
人ではない主人公。
怪人の手による社会の構築。
怪人=絶対悪ではなく、怪人も心は人と変わらぬ存在であるという追求。
こういった内容を描き続けた作品であるからです。
(共にメインライターが井上敏樹氏である事もこの印象の一因でしょう)
その555における木場と同じ馬モチーフの怪人が第1話で登場し、倒される。
倒すのは紅渡です。
木場も渡も、
「人間と怪人(オルフェノク/ファンガイア)の共存」
という理想を抱いていました。
しかし木場は不幸にも様々な悲劇の運命が災いし、その理想(夢)に破れ挫折してしまいます。
"闇堕ち"と呼べる状態になった木場はそれまでの己の理想を忌避し、人間に敵対する道さえ選びます。
この木場の姿に渡がとてもよく重なって見えます。
渡も人ならざる身でありながら、人とファンガイアの共存という難しい理想を見出しますが、そこには数多くの困難な運命が立ちはだかりました。
彼の人間でもファンガイアでもない出生を思えば、木場より更に複雑な立ち位置にいるとさえ言えます。
そんな木場を、そんな渡が倒したのが第1話の構図であるかのように見えた時、
ただの「ファーストバトル」から「もっと別の意味も持った戦い」に印象が変貌しました(またの表現を「妄想がスパークした」とも言います)。
仮面ライダーキバ第1話でホースファンガイアが武器を生成します。
(余談ですがこの自分の表皮のステンドグラスから武器を生成するファンガイアの能力もとても好きです)
その武器は剣です。
ホースオルフェノクの武器もお馴染みの剣です。
符合。
別に馬=剣という一般的イメージがある訳でもないのに、符合。
(馬に乗る騎士やケンタウロスのイメージなら槍や弓になりそうなものです)
なんなら一概に剣と言っても様々なタイプの剣がある中で、この2つは共に幅広型で近いタイプの剣ですらあるのではないでしょうか。
麻生恵を襲っているホースファンガイアをキバが掴み、フェンスに向かって投げ飛ばすところから両者の戦いは始まります。
己が身で倒したフェンスの向こうで立ち上がるホースファンガイア。
睨み合う両者。
(余談ですが悠然と見やり、対峙する構図やこのキバの後ろ姿、回り込むカメラアングルもメチャクチャかっこよくて好きです)
そして構えたキバが横に歩を進める。
(余談ですがこの構えも、対峙したまま横へ走り出すのも超かっこいいです)
その時、フェンスがキバの眼前に重なります。
更に横へ歩を進め、キバの身体は完全にフェンスの向こうへ覆われます。
キバが本編内での最初の戦闘で、敵と真っ向対峙した最初の行動・表現がこれです。
キバの顔が、体がフェンスに被さるのを見ると、更に555が連想されます。
それは仮面ライダー555の最終回。
オルフェノク変化時の模様を象徴したような網を用いた演出です。
「人間として生きる」と宣言した巧は網を抜け出し、立ち去りました。
「お前も人間だ」と巧に言われた木場は網の向こうで涙を滲ませながら絶叫します。
(余談ですがここの泉政行さんの絶叫、熱演でとても好きです)
555のラストシーンは巧、真理、啓太郎が網の裂け目で寝転がる演出でした。
「人の心を持つ者達」、「そんな者達が共存する光景」の象徴のようでした。
そんな555最終回の演出とこのキバ1話のフェンスが重なって見えたのです。
フェンスを挟んで対峙するキバとホースファンガイアは、555における「網」のこちらと向こうとに立っているのとよく似ているのでは?と。
そして睨み合っていた状態からホースファンガイアがフェンスを蹴倒します。
(余談ですがここのキバの腰を落として前屈し左手を前へ出した姿勢もメチャクチャかっこよくて好きです)
両者を隔てていた障害のフェンスは消え、戦端が開かれる!
そして一気にもつれ込み、激しい近接戦闘へ。
フェンス≒555最終回の網、と見ると、これは網が崩れ去り「人として生きる」「オルフェノクとして生きる」境界そのものがなくなった状態と取れます。
キバの主人公・渡は人間でもファンガイアでもない存在です。
故に人間とファンガイアの狭間で自身の生き方に大いに苦悩もしました。
その果てに彼が出した答えは、
「僕は生きてみたいんだ。人間とかファンガイアとかじゃなくて、僕は僕として」
というもの。
「人間か怪人か」の二者択一、二項対立ではなく、境界を撤廃し、双方の側と混ざり合い、融和した境地からの答え。
両者の境界としてのフェンスがなくなったこの状況と一致していないでしょうか。
そしてこれは人間でもファンガイアでもない渡の存在自体ともよく似ています。
「網のどちら側でもない特異点」「網のどちら側にも囚われない生き方をする」
これが渡の存在と信念です。
また、このキバVSホースファンガイアで最初にフェンスをなぎ倒したのはキバです。
網≒フェンス≒境界を打ち破り、風穴を開ける存在。
そう捉えて見ても、ハーフという革命的な渡の存在、生き方と符合します。
仮面ライダーキバのOP曲「Break the Chain」の歌詞にも
「閉ざされてたドアをその足で壊せ」
という歌詞があり、OP映像の該当箇所でも渡が体を縛る鎖(キャッチコピーにもなっている"運命の鎖"の比喩でしょう)を引き千切る様を見せています。
ちなみにこの鎖、引き千切られる時は外部にある存在として渡を縛っていますが、
最初に画面に映る時は渡の体内を這い回るように現れています。
まさに"運命の鎖"とは渡の内側にあるものが起因して渡を縛るものとなっている、という表現でもあると思います。
それは渡の性格であったり、人でもファンガイアでもない存在という点であったりかなと。
こうした仮面ライダーキバOP、及び渡の存在や後の生き様をこの本編初戦の初手が暗喩しているようにも見えて来たのです。
そして上記画像の通り、ホースファンガイアもまた、フェンスを蹴倒しています。
555の馬の怪人である木場は、巧へ絶叫した後、網の中で苦悩していました。
しかし、木場はそのままそこに居たわけではありません。
葛藤の末に・・・、
木場もまた、巧と同じく網の裂け目から抜け出して行ったのです。
オルフェノクとして生きると言った彼が、オルフェノクの象徴のような網の中から。
それを踏まえると、ホースファンガイアがフェンスを蹴倒すのもまた、この時の木場をも踏襲しているようにも見えてきます。
つまり、木場は理想に破れてしまったし、最終的にはまたその理想を取り戻したものの、直後に命を落としてしまった。
そんな非業の運命を辿った彼の、負の部分、悲劇の部分が「第1話の敵としてのホースファンガイア」に仮託されているように思えてくるのです。
後に木場と同じ共存の理想を抱く渡が1話でホースファンガイアを倒す。
これは渡が木場の善の部分を受け継ぎ、それでいて今度は木場のように悲劇の運命の前に挫折する事なく、悲しき死を遂げることもなく、明るい未来へ向かって行く。
そういうことの象徴なのではないのだろうかと。
網≒フェンスを「境界」と表現しましたが、これは田崎竜太監督が龍騎のエピソードファイナル、あるいは555のパラダイスロストのコメンタリーの中で使っていたと記憶している言葉です。
境界を超えるか否かの物語云々、という作品解釈を述べていたと記憶しています(うろ覚えですみませんが)。
この田崎監督が555最終回とキバ1話の監督を務めています。
両作の劇場版の監督も務めており、作品に与えた影響の強い方だと思います。
このことも網とフェンスが「境界」的な思想によって配されたのではという想像の一助となっています。
更に田崎監督はキバの企画初期に、チーフプロデューサーの武部直美さんと脚本家の井上敏樹さんと3人で集まり、打ち合わせして方向性を決めていったそうで、この時から作品にとても強い影響力を与えていると同時に、作品の根幹を初期に共有していた方でもあるのではないかと思います。
ちなみにキバが人間とファンガイアのハーフであることも企画初期時点で決まっていたとのことです。
(講談社「平成 仮面ライダー vol.9 仮面ライダーキバ」P.5より)
また、チーフプロデューサーの武部直美さんは仮面ライダー555でもプロデューサー補として参加していますし、555もキバもメインライターは同じ井上敏樹さんです。
こうした2作のスタッフや作品性の共通点、監督の思想などを合わせると、この1話の戦闘には
「木場の正の部分を継いだ渡が、木場の負の部分を倒し、今度こそ理想を貫く」
という様なスタッフからの所信表明でもあるのではないかと思えて来たのです。
オルフェノクもファンガイアも、変身時には顔に模様が現れるんですよね。
この点でも意図的に類似性が持たされた怪人にも思えますし。
あと、ホースファンガイアからキバへの攻撃に自動車を押し飛ばしてぶつけるというものもありました。
渡に向かって突き進む廃自動車。
木場の全ての悲劇の発端は555第1話冒頭にて、木場の運転する自動車が交通事故に巻き込まれ、同乗していた父母は事故死し、木場自身も昏睡状態に陥ってしまうところから始まっています・・・。
突進して来る自動車を回避したキバ。
ホースファンガイアが悲劇的に終わった木場の象徴なら、彼の悲劇の元凶そのものである攻撃を渡が回避してみせたこともまた「渡は木場の悲劇の運命から脱する」という象徴のように感じられるのです。
キバとホースファンガイアのこうした一連の戦いと、それを経てホースファンガイアを倒す事こそが「"運命の鎖を解き放て"」を本編で実現した最初の戦いでもあったのではないだろうかと。
そして「仮面ライダーキバ」という作品名。
「キバ」とは、言うまでもないことですが「木場」と同じ読みです。
駄洒落みたいで恐縮ですが直球でキバ=木場の比喩だと捉えることもできます。
「仮面ライダー木場」、木場が主人公になったのがキバである、というような。
渡と木場自体が性格的には優しく穏やかで物腰柔らかく、大まかな分類としてはけっこう似てる方だとも思いますし。
(もちろん木場には渡のような極度の内気さや自己否定気質はないですし、渡は木場のようにリーダーシップを発揮することは基本しない一方で木場より輪をかけて優しく怒りにくく、芸術家の才能を持つなど相違点は当然ありますが)
もしここまで書いたような内容をスタッフが
「そのような意図も発想も一切なかった」
と本心から完全否定したとしても、もう自分の中ではこの解釈(妄想)も1つの見方として持ちたいです。
容姿からしてけっこう似てると思うんですよね。
髪型がまず似てるし、顔だちもけっこう似てる方だと思います。
悲劇の内に命を終えた木場の魂が輪廻転生し、善の部分が渡に生まれ変わった。
そして負の部分、悲劇の運命の鎖に囚われた部分を象徴するホースファンガイアを渡が倒すことでキバの物語は幕を開ける。
木場が挫折した人間と異種族の共存を継いでいく。
こう考えると、木場の非業の死への悲しみが少し癒され、報われた気にもなります。
(もちろん木場へのこの解釈によって渡を好きになったのではなく、最初から渡は渡として、木場は木場としてそれぞれ大好きでした)
仮面ライダーキバの最終回サブタイトルは「フィナーレ キバを継ぐ者」でした。
これは「"木場"を継ぐ者」でもあったと解釈すると、感慨深くないですか?
木場が破れた"共存"という理想を継いだ渡が今度こそ成し遂げて見せた最終回でもあったのだ、と。
渡と木場。キバとホースオルフェノク。
本記事に書いた解釈(妄想)を持ってから、
この2人の並びにとても特別なものを感じられるようになりました。
(S.H.Figuarts 真骨彫製法のキバとホースオルフェノク、どちらもとても良い出来ですのでオススメです)
ここまでお読み下さりありがとうございました!