昨日と今日ピアノのレッスンから感じた事です。
それは
「音楽は見えない世界を教えているもの」と言う事。
少し難しく、非常に音楽的なので興味のない方は
スルーしてください。
昨日と今日レッスンしていた生徒さんは、お二人ともピアノの先生。
そのお二人に再度先日書いた「チックコリアの偉大な言葉」の
お話をしました。
今までの日本の多く、私がピアノを始めたころのひと昔前に
習った生徒たちは、このチックコリアの言う
「うまくなりたいための練習」
の仕方しか、習ってこなかった生徒たちがほとんどだったと思います。
私を含めて。
もう1つの「自分を表現したいための練習」のやり方等、全然教えて
もらった記憶はないし、反対に自分の思う通り弾くと叱られたり、
「先生の思う通り」弾かないとやはり先生に気に入られなかったりした
と思います。先生のせいにするのではありませんが。
でも音楽で本当に大切なのは「自分の世界」。
そしてそれを表現するために、「うまくなりたいための練習」が必要な
訳です。いくらテクニックがあって、自在に指が動いても、そこに心が
のっていなければ、コンピューターが弾いているのと同じです。
そしてもっと大切な事。
今は「目の時代」。「耳の時代」ではありません。
伝いたいこともメールやラインになり、音楽を聴く時もYOUTUBE.
全て「目」から入ってきています。
「しかし音は目に見えない」。
だから今は音楽は伝わりにくい時代だと思います。
人として本当に大切なもの、思いやりや愛、未来を考える力、
今までになかったものを生み出す力、これらは全て見えないもので、
人の頭の中からだけで創り出す能力。これらは見えません。
イメージも見えません。
音楽レッスンは楽器に限らず、
音の上に自分の気持ちやイメージをのせて弾く事が、
何よりのレッスンであり練習であり、創り出すと言う楽しい時間です。
音の間違いやリズムの間違い、クレッシェンドの仕方やピアニッシモの
小ささだけを求めているレッスンや演奏では片手落ちでしょう。
「それは何のために弾いているか」「何を表現したいのか」がないと、
面白い演奏(たとえ4歳でも)ではないし、コンクールも通らない。
今日やったのは例として、ブルグミュラーの貴婦人の乗馬のこの部分。
「ソシドレミファソ、 レ、ミ、ド、シーレ」の段1段。
弾くのはピアノの先生Aさんだからもちろん十分ちゃんと弾けます。
そしてこんな風に「実験」してみました。
これはあえてこの部分で「イメージをのせるための練習」です。
AさんのイメージB 1回目
「ソシドレミファソ」=おばあちゃんが孫たちに「おもちが焼けたよ!」と
呼びかけている。
「レ、ミ、ド、シーレ」=孫たちはテレビに夢中で知らん顔。
2回目
「おもちが焼けたよ!」と孫が来ないため、さらに大声でおばあちゃんが
呼びかける。
「ファ、ミ、ド、ソー」=孫たちはびっくりしておばあちゃんの方にかけよる。
こんな実験でした。
①おばあちゃんらしいやさしさを出し、ほのぼのした様子を表現する。
どうすれば①ができるか、何度も弾きました。
さらに「ソシドレミファソ」は話し言葉、
「レ、ミ、ド、シーレ」と「ファ、ミ、ド、ソー」は話し言葉ではなく、孫たちの
様子。「話し言葉と動作の様子の違い」を、どう弾きわけるかも課題です。
色々弾いてみて面白い実験(レッスン)でした。
そして①と対照的にこの曲としての私のイメージC。
「ソシドレミファソ」=貴婦人が乗馬の練習で小川を飛び越えようとしている。
「レ、ミ、ド、シーレ」=怖くて小川を飛び越えられず、ぎりぎりまで行ったけれど後ずさり。
2回目
「ソシドレミファソ」=今度こそはと張り切って再度チャレンジ。
「ファ、ミ、ド、ソー」=やっぱりできず止まってしまい、1回目より落ち込む。
そしてこのA先生のイメージBと私のイメージCの弾き違いも検証したのです。
イメージBの演奏は優しくてほのぼの、イメージCは優雅ででもとても不安。
まったく違います。あくまでこれは「実験」としてやったのですが。
音にどう出すか、どんな音が良いか、人に分かりやすいか。。
そして本当に大切な事が
「自分の中にわいてくるもの」があるかです。
こじつけではなく、音楽を聴いて自然にわいてくるもの。
先ほどのような具体的なイメージでなくても良いのです。
そしてそれを表現するためにチックコリアの
「うまくなるための練習」が必要なのです。
しかし本当に必要な事は「自分を表現したいための練習」
さらにこれは人間形成にもっと大事なことにつながっていきます。
今は「目の時代」。しかし「耳の時代の大切なもの」、
これは次回に。