大事な内容だと思うので再送です。
一緒にお考え下さい。
人にはものの見方、考え方への
焦点の当て方があります。
無意識の場合が多いですが。。
例えば果物屋の主人が、売れ残った
みかんを一つ、お客にサービスで
あげたとします。お店にはお客が
二人いた、みかんは2つしかなかっ
たとします。
最初にみかんをあげた方のお客が、
もう1つあるのを見て、
「2つあるやん、そっちもちょうだい!」と
言ったとします。
あげる権利は果物屋の主人にありますが、
最初のお客はもらうのが当然のように
要求してくる、そのお客の焦点はもう
1つのみかんに当たっています。
果物屋の主人の気持ちには当たっていません。
みかん1つで大げさかもしれませんが、その客は
みかんがほしかったわけではないなら、果物屋の
ご主人への感謝もありません。
本当なら、また謙虚なら、みかん1つでも
「ありがとう」となり、その心を受けとる事が
真理だと思いますが、今の時代、その真理
より、みかんという「物」だけに焦点が当たり
がちになっていると思います。
つまり「見えるもの」しかわからないのです。
本来果物屋の主人の「気づかい」に、焦点が
当たるべきですね。サービスとして心配りを
しているのですから。その心配りの品が、
たまたまみかん。
そして最近は、「さらにもっと」と、それ以上の
要求(2つめのみかん)をしてくる場合も多いです。
これは現代が、「サービス過剰時代」だからかも
しれません。
現代の、「なんでも見える化」が失わせていく
見えない「心」。
さっきのお客は果物屋の主人の立場に立って、
これはサービスでくれたのね、
もう1つは違うお客にあげるのね、
もう1つを誰にあげるかは、果物屋の
ご主人に決める権利があるのね、
と言うことが分からず、
「みかんが2つあるのに、1つしかもらえなかった」
という考え方になってしまうのは、
現代社会のゆがみではないかと思います。
善意でこちらが提案し、それがその人達に
必ず喜ばれる、役立つと思われる事でも、
その価値が相手にわらなかったり、それを
欲していない場合、受けとる能力がない場合、
その価値は見当違いとなり、値打ちが下がって
しまいます。
またそれだけならよいですが、反対にそれ
以上のものを、要求される事があります。
(みかんが2つほしい)
皆様はどうお感じになったでしょうか。
見えるものしか通じなくなってきた現代、
インスタが流行るのもそのせいかと、ふと
思ってしまいます。
心って見えないけれど、みんながある事を
知っていますよね。不思議ですね。
本当に大事にな物は見えないのです。