世界のゆくえ

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福島原発事故の真相

史上最悪の福島原発事故から1年7ヶ月が経過した今、事故現場は如何なる事態となっているのであろうか。

世の中で最も危険な物質である1~3号基の核燃料棒は、溶け落ちた地中で安全な状態を保っているのであろうか。残念ながらそういう状態ではない。更に悪化の一途を辿るばかりである。もはや一刻も早くセメントを流し込み、コンクリートの墓を造るしかないと指摘されているが、マスメディアからはこうした情報が流れてくることはない。報道を止められている模様なのだ。従って、民衆の不安感はあたかも遠退いたかのような感がある。しかし、現実はそうではない。私達は事故の真相と実態をもっと深く知らなければならないのだ。

「原子力とは最終的に人間がコントロール出来ないもの」という。これ程単純な道理が未だに理解出来ず、原子力推進の迷妄から冷めない者が居る現実は、何とも恐ろしいことか。これは、日本経済や国力の低下云々よりも以前の問題なのである。因みに、先進国の中でも正常な思考力を持つ国、オーストラリア、イタリア等8カ国は、「最終的に制御出来ない危険物」以外の他の理由もあるが、原発廃止に向けて政策を転換、又は所有しなかった。

では、何故この国では、このような事態に至ったのであろうか。1954年、元読売新聞社主、正力松太郎や中曽根康弘等により、原子力開発予算が国会に提出され、順次組織化が進み、1962年には茨城県東海村に国内第1号の動力原子炉が建設された。 この背後には政財官のおどろおどろしい利権構造が横たわっていることは疑う余地はなく、それを容認してきた近代世相自体も愚かしいのである。

我が国の保有する原発はいずれも、M8以上の直下型地震に対する耐震と、巨大津波に耐えられる構造ではないと指摘されている。

原発は、核爆発とは異なる緩やかな核分裂システムとはいえ、核実験や核兵器取り扱いの経験がない日本の原発従事者達は、一度事故が起きてしまうと即時に対応処置を執れる能力を持たず、危機意識を抜き取られた非常に幼稚な運転技師達によって、巨大な危険物システムを運転していた事実がある。

そもそも、原子力機構は国の行政下にあるもので、一電力会社の単独機関でないことは衆知の事実だ。正に原子力機構とは、官僚癒着型の強権巨大組織体なのだ。

福島原発に関して更に掘り下げれば、主に設計に携わったのは米国ゼネラル・モーターであり、国際資本、所謂海外の軍産複合体に干渉され、連綿と建設されてきた原発の一つであった。事故後、政府は民衆の目を一貫して東京電力などに向けさせる姑息さで、万人から非難されるのは当然というもの。

また、政治家のトップの言も滑稽千万。「現在、原子炉周辺において、終息に向けての作業を進めています‥‥」と言い放つ常識の無さなのだ。10万年以上燃え続ける核分裂に終息が無いことは衆知のこと。全てに経験が浅いであろうと思われる民主党の若手議員は、あたかも自分達が現場の指揮を執っているかの様な口調での発言もあり、滑稽の上塗りでもあった。特に、当時の内閣官房長官などは、何十万頭の動物を屠殺(虐殺)に追い込むという冷酷、非情の処置に対して、臆面も無く「安楽死させます」と平然たる態度で述べる姿には、虫唾が走る思いであった。

私達日本人は、これまで多くの苦難を乗り越え、他に類なき再生力を持つ民族として高く評価されている。凄惨を極める東北被災地においては、涙枯れても再生に向けて進まなければならない。

しかし、二次被災(人災)である原発事故は全く異質の事情であり、人間(国民が選んだリーダーたち)の浅知恵から生まれた、起こるべくして起きたあまりにも巨大な事故である。既に如何なる経験や知識も及ばないこの事態は、近い将来、体内被曝による膨大な発病者や奇形児が続出するのではないかと言われ、極めて深刻な予測がなされている。

「福島原発の真相」とは、私が著書(伝統と崩壊の狭間で/2010年11月発行)に述べた「文明(利便性追求と奢りの顛末)の終局様相」の一面と言える。今や汚染列島となりつつある我が国の現状。戦前戦後を通じて、我が国の政府構造は完全に綻びを見せて始めている。この危機存亡の時、私達ひとり一人が思慮分別を高め、現行の政財官学、その他、この国の機構制度を根本から否定し、完全に異なるパラダイム構造を希求しなければないと私は考えている。

民衆の代表者たる者は、先ず人徳・文化的素養を持つ清冽な人物であることが第一条件であり、実は哲人である必要がある。日本国民として政治、経済、法律学は一応学んだであろうが、弁論バカの高額所得者、政治屋集団を養って置く余裕は、今の日本にはない。更に付け加えれば、一国の有事が発生した際に持つべき的確な才量と気魂、それらを備えた大器の人物を探し、政界人事をそっくり入れ替えなければならない。現政府機構の再編などの生易しいものではなく、全く新しい政府システムを創設しない限り、現在の窮地を脱すること等不可能と考えなくてはならない。

福島原発の処理作業は、今尚危険な域を脱することが出来ず、この後の推移が辛うじてでも、破局を免れるよう祈るばかりである。

地球の異変


私は、一昨年末(2010年11月)にNPO法人「敷島の会」(純正日本の教育の再生、自給自足の精神に立つ農業の確立、安全な環境の確保)を発足させ、この機会に合わせて、書き留めておいた草稿を繋ぎ合わせた小著(伝統と崩壊の狭間で)を出版、周辺に配布させて頂いた。

この本の著作動機は、私達を取り巻く自然界諸事象がこれまでとは明らかに異なる様相に転じ、激変を始めているという明瞭な認識によるものであった。世界各方面の鋭い観察力を持つ人達が発する情報と、それらの集積から、私は未来に対し強い危惧と閉塞感が募り、或る不吉な予感(予測)を、それも地球規模の大異変が迫っているのではないか、そのような思いに基づくものであった。

近年、特に関心を寄せているのが太陽である。今思えば、3年位前から絶えず私の意識下の意識(直感)が騒ぐため、太陽に異変が生じていることを周囲にも口外するようになっていた。太陽異変に関しては、一部のメディアで既に報道しているが、米国NASAを始め欧米諸国の天体観測機関によって、太陽の黒点活動がこれまでとは異なる周期の様相を見せていることが報じられている。

そして、2012年から2013年初頭には、太陽活動が極大期を迎えるというのが定説になっている(黒点サイクル24)。これにより地球は厖大な量の太陽風(プラズマ粒子)を受けることになる。結果、地磁気はかき乱され、最悪の場合地球地磁気極の転換と地軸の移動もあり得ると言われている。

現に、過去1958年の極大期には、地上における電気的トラブルが多発した事実が報告されている。この年代は電子機器が未だ発達する前である為、被害も最小限で済んだが、現代の電子システムのトラブルとなると、被害は想像を絶する規模になるかも知れない。

次期極大期黒点活動は54年前の規模の3~5割強という説もあり、大電力消費、電子化した今日の社会メカニズム(原子炉を含む)は、破局的状況になるであろう。これは、オカルティズムや偏向的学説ではなく、一般に報道済みの事実であり、当然、各国の人工衛星による観察データにより裏付けられたものなのだ。

更には、今年5月、太陽のSN両極の他に新たなSN極が発生し、4重極化しつつあるという事実が国立天文台から発表された。「やはりおかしい!」私は耳を疑う思いであった。これはテレビでも放映されたが、インターネットでも閲覧出来る。(太陽に異変 静穏化で地球は寒冷化するのか、日経サイエンス)



世界のゆくえ


母なる大地に対し、父なる存在である太陽の異変は、即この地球上に様々な影響を及ぼす。我が大地の営みは、太陽と連動していることは当たり前のことである。取りあえず太陽の黒点活動については、複数の人工衛星で観測しており、私達もこの情報はリアルタイムでキャッチ出来る。(http://swc.nict.go.jp/contents/index.php

地震予知に関して言えば、如何に測地し、地殻変動やその周期等を調べても片手落ちと断言しなければならず、地球が天体からの引力と磁気による影響を受けるであろうことは、素人の私達でも容易に思い付く。今後、地震予知連絡会その他の機関には、天体と地球の相関関係の究明に尽力されるよう強く望むところである。

ここで改めて自著に記したフレーズを引用させていただく。「思いますに、近代文明がもたらす人間の奢りは止まる事を知りません。危険な原子力発電とそれをコントロールするシステム等々、超大規模の自然界の異変は考慮に入れておらず、脆弱そのもの、ガラス細工のような駄作です」(本文51ページ)、 又、「今時文明はそれほど長く持続出来ない‥‥天と大地の鳴動が恐ろしい規模で唸り始めたのが手に取るように分ります」(105ページ)。残念ながら2011年に入り、私が記述したことが現実のものとなってしまったのだそして複合的大異変という幕が開いてしまったと予測せざるを得ない

「3.11」、巨大地震は信じ難い規模の津波を発生させ、東北沿岸部が壊滅状態に陥ってしまった。目を覆うような惨状に、政府の対応は人々が唖然とする無力ぶりだった。それもその筈、我が国の複雑怪奇に肥大化した議会制民主主義は既に破綻しているのである。正に現在のような「有事」の際には全く統御する力を持たないことが露呈した。

この後は全国民の協力の下、長い苦難の道を歩まなければならないであろう。一方、福島原発の事故はその対応の不始末は元より、超大規模の地震を設計強度の枠外に置いたのであった。大欠陥原発を建設し、運転を続けた結果がこの有様。嘗て明治時代に起きた三陸地震により、大津波が記録されているにもかかわらず、各省庁や建設関係のリーダー達は極めて思慮浅薄な人材が揃っていたことを露呈した。

今、原発が日本列島を囲むように、しかも市民住居区域のいたる所(全国で54箇所)に造られてしまったのは、狂気の沙汰であり、その中のたった一か所の原発が既に全地球上に死の灰を撒き散らすという大罪を犯してしまっている。更には六ヶ所村を含め、各原発の施設には1万5000トンもの使用済みの核物質がプールされ、既に飽和状態になっているのだ



震災被災地を訪れて

私は震災の惨状をこの目で確認しようと、一昨年4月18日、僅かながらのお手伝いを兼ねて被災地である宮城県気仙沼市と仙台近郊のとある町を訪れた。

桜の花が散りしきる頃、茨城・石岡を発った。現地に着けば、津波に襲われなかった地域のあちこちは、桜が満開であった。仙台空港脇のかなり高い堤の上を走る高速道路から周辺を見渡せば、テレビに映し出されたあの光景が、現実として目前に広がった。跡形も無く破壊されて残された瓦礫の山々、無数に流され横たわる車、車の無残な姿。そんな中にも、ぽつんと立っている桜の老木。淡いピンクの花が見事に咲いていた。何と不釣り合いな光景であろう。

宮城県亘理町に到着後、私はボランティアセンターに所在を登録し、被災を免れた町民会館裏の仮野営地にテントを張り、明日からの作業に備えた。

脇に立つ桜の大木は、褒めてあげたいほどの沢山の花を付けている。しかし、私はこれほど寂しく空しい桜花の姿を見た事がない。この地にあって、私の心は塞ぎ込み、桜花に心が有るならば私達と同じ想いであろうと思わずにはいられない。帰途につく8日目、気が付けばこの地の桜花は一斉に散り始め、空しさだけが残る。 「東北の開花期間は長いものだな‥」独り呟く。

被災地の花達は、人の心を和らげることもなく、敢え無く散っていった。

夥しい数の被災者、取り分け未だ行方の分らない方々を含めて、命を失われた多くの方々に対しては、誠に愛惜の念に耐えません。正に、絶句する痛ましい惨状の被災地に対し、私は思考の混乱を繰り返すのみである。

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  The End of the World
                       







学校嫌い(不登校)、ひきこもり諸君へ!

                                            茨城県石岡市加波山


私 の 人 生 論            


実は人々が如何に求めても、真の幸福などは何処にも無い。 あるとすればそれは他を案じ、その人の為に何かの行為を成すときのみである。

下記ように真理を見極めた人(仏陀)が云う。人間の生存の本質は「苦」である 即ち、世渡りは所詮苦しみの要素でいっぱいであるとして、人生の本質を簡 潔に 説かれる。

四つの苦(四苦八苦)                       

欲しいものや良い状態を求めても欲望は尽きることはなく、所詮苦が付き


 まとう。                         (求不得苦)

●諸々の欲望や不満がとめどなく湧きあがる。         (五陰盛苦)

●会いたくない人や不都合な状況に絶え間なく対面しなければならない。       


                             (怨憎会苦)

●愛する人や事物を最後には失う。              (愛別離苦)

人々の人生種別(三つのタイプ)

●人をあざむき、罵倒し(ののしる)他人くたばれ我繁盛という著しく利己的で卑しい者は苦が絶えない。人を憎み、世間を恨みながら苦から苦の綱渡りのような生涯。

●平穏な生活と時折発生する災厄(苦境)を迎えても時間の経過に身を任せ、それとなく過ごして行く一般的な人々。

●どのような苦境も自分に課せられた試練(勉強)と捉え、柔和忍辱(にゅうわにんにく)の心情と利他的(深い思いやり)の精神を保持する人。

「苦」とは、苦の状況から逃げようとすれば何処までも追ってくる。「苦」の本質を知り、敢えて受け入れ、立ち向かえば必ず良い結果が生まれる。    「苦,集、道、滅」(四諦)
金銭、地位、異性に対する愛欲、何もかもが同様に、追えば追う程に望む状況は遠のく。

              私の人生観
 気がついてみれば小生も齢70歳、そこかしこに老いを感じる今日この頃である。 過去を回顧すれば、快いことも多い。苦悩の淵に立ったこともある。 だが、それらは淡い同一色の思い出として脳裏を掠める。 若者達は過去と未来に挟まれた現在の位置にあるが、年寄りは皆同じように、過去と短い未来の間に現在を持つに過ぎない。 小生は殊更、貴重な現在と極短い未来の所有を、より明確に考えようとしている。 又、通常の情感とは別な思いとして、人類の文化文明発祥からその行方について、出来るだけ俯瞰視するよう心がけてもいる。 その中で様々な疑問に始まり、矛盾を覚え、それらを少しずつ世に問いかけたい。
 少々哲学じみたことを述べるようだが、現代の世間には全うなものは何一つない。陰日なたなく奉仕活動に精を出す人たちは別として、政、財、官、学界においてのリーダーの多くは、その素養としての文化性が欠如していると見る。 特に国政を預かる者は高徳でなければならない。人倫とは、事象の究極道理は、即ち「哲学」によって「人格」が得られ、総ての信頼を寄せれば、いたずらに国会などの人事変遷を繰り返すこともないだろう。(哲人が政治家になるか、政治家が哲人にならなければ、民衆は永遠に苦しむであろう~プラトン~) 現代社会の中枢部にある面々は、現今物質文明がいずれも限界に達しているにも拘わらず、その先棒担ぎばかりである。 限界は終局を意味する。 その最たるものがクローンなどの遺伝子工学、そして言わずと知れた原子力工学である。これらは本来人間が手を下すべきものではなかった。 一度手を染めれば、人間には制御出来ない化け物である。 この単純な道理を、心で捉えることが出来ない者が多勢居る。 今福島の事故現場では、地中に溶け落ちた最も恐ろしい危険物、核燃料の行方が不明であり、どうにもならない。 列島に現有している使用済み核燃料が15,000トン(日本人全てが知るべき数値)全国54箇所の原発プールは満杯であり、永久保管の場所は全く無く対処策はゼロである。 人々は行過ぎた物質文明に潜在的閉塞感を抱き、二度と再びこの鬱積した感情を晴らすことはないであろう。 現今を終末の期と捉えるのは私のみであろうか。
 今の世はあらゆる様相から考えて、文明進展のピークに達していることに関し、何れも異論はあるまい。 次は急落か破局、不測の事態が迫っている筈だ。 極近い将来に先の東北災禍同様、否それ以上の異変やその他の国難が生じ、地球規模で広がるかも知れない。 このように申せば不吉千万と、他に疎まれるのは承知しているが致しかたがない。 もうそろそろ口外しても良い情勢に差しかかってしまった。 これは長年月10年間以上)蓄積した情報と宗教的感応を合わせたものであり、断言せざるを得ない(地球異変については後述)。 仮に断末魔の期に遭遇した時、皆の為に少しは役に立つこの身と思えば、いつでも指揮をとれる元気さを保っている。 それまで3年、短ければ1年半でも良い(私の独り言)。 このようなことに関して一般世間の人々は無関心であろう。 ただーただ、前途ある若者達を思えば何とも気の毒である。 今後知恵ある者は最悪の事態を心内にシミュレートしてしながら、それを前提に、「泰然自若」の精神を養いたいものである。が、しかし、世の終末があれば全く新しい世界が開くのかも知れない。 大いなる期待を持ちたい。  

           あるべき人間の姿

●人は心から慈愛するものを持つのが当然である。夫婦、親子、兄弟、仲間たち、


 その間柄は温和でなければならない

●尤なる(道理に適った)人格とは、その心須らく利他的であるべし。

●人は崇敬の対象(自然神や崇敬すべき人物、その事績)を尊ぶのが自然な姿で   ある。

●仏教、神道、儒教、基督教…それらは人が持つべき知恵の宝庫である以上、少なからず体得するのが上策である。                                                                                            
                           青柳一宇
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教とは教えの源の意、それは森羅万象の営みを教えるもの


○何故宗教が必要かと尋ねる人がある、斯くのごときは何故生きるの  


 かと尋ねるのと同一である


○宗教は生命そのものの要求である    


                      (西田幾多郎博士)


神を信ずると否かとは自由である。しかし、人格を信ずると否とは自由ではない。それは自己否定につながるからである。しかも、人格は「神」を認めなければ成り立たない。

 

神への「信証的自覚」→「主体的人格」  


「人間」→「人格」→「人格的自我」

                      (佐藤克己教授)