全世界で起こっている差別反対の抗議デモを眺めるにしたがい、改めて「差別」とは何か、また差別の存在しない社会とは、と考えている。
人間社会である以上、イジメなどと同様に差別を完全に排斥することなど不可能であろうが、それでも少しでも差別はない方が良いだろう。
それにしても差別のない社会とはどのようなものかを想像することはできる。ジョン・レノンの「イマジン」の世界などのお花畑の世界の話をしているのではない。あくまでも現実レベルでの想定である。
いろいろな状況を想定してみたが、確かに差別のない社会は2つ存在していた。そしてそのうちの一つに関しては、私にとっても大変に馴染みの深い世界であった。
それは「トレードの世界」である。トレードとは株式、 fx、債券、商品(コモディティー)などジャンルは様々だが要するに相場の世界である。
トレードの参加者は、人種、国籍、男女、年齢、職業、学歴、容姿、全てにわたって全ての差別なく市場に参加できる。金持ちと貧乏人の差があるように感じる人もいるだろうが、個人の取引額で相場を動かせるような天文学的な資産を持つ大富豪でもない限り、その資金量は巨大な取引の流れの中にあっては、ほとんど無視できるような要因でしかない。
そしてトレードには無限の自由度と完全な自己責任論が当てはまる。どれくらの資金を投入するのも自由、いつトレードを開始するのもいつ閉じるのも自由、その行為にはトレード以外の属性による影響は全く受けない。
また時間的な制約もない。この時間、この瞬間、全世界のトレード参加者(アメリカ人もインド人もフランス人も、もちろん日本人も)が、同じ値段と同じチャートの為替やゴールドの値段、アップルやトヨタの株価を眺めているし、その仕組み自体が完全にフェアな世界なのだ。
そこには一切の差別は存在しない。逆に言えば、一切の配慮や忖度もない非常にシビアな世界なのだ。
私は若い頃からトレードが趣味で、今でもなにがしかのトレードをしている。
これはお金儲けのためではない。もちろん損をするのは嫌だから、その本質はお金儲けであろうが、それ以上の意味でも趣味性がある。
それは何か?
トレードは「自分自身に向き合う」ための場であるからだ。トレードの極意はテクニカル分析などの知識や経験などではない。
心理学的な意味で、自分の心のうちにある「欲」と「恐怖」との戦いであるし、自分自身の心情をいかにコントロールできるかである。
だから私は常に自分に向き合い自分を知るためにトレードを行っている。そこはいかなる差別も存在しない、極めて内的な世界なのだ。
もう一つの差別の存在しない世界。それは「ヴァーチャルな世界」だろう。これについては次回に書いていきたい。