私の政治活動、というよりも人生においても最大の価値としていることは、「フェアである」ことだ。

 

 最近日韓問題が騒々しいが、それに付随してヘイトスピーチというものも取りざたされている。私は個人的にはどのようなものであれ、ヘイトスピーチは下品であるので嫌いだが、その良し悪しを巡っての議論も耳にする。

 よく、「日本死ね!」だの日本をヘイトするものは表現の自由として容認するが、反韓を煽るようなものはヘイトとして規制するべきだと主張する人々がいるが、これはまったくおかしな話と言えよう。

 同じような言動や行為でも、片方は容認され片方は糾弾される。このことに対する矛盾には目をつむる人々は、よく「非対称性」という概念を持ち出して説明しようとする。おかしな論理である。

 つまり日本が植民地支配をしてきたのだから、それらは同一の地平で考えるべきではなく、非対称性をもって不均衡に考えられるべきだという主張である。

 そして、この「非対称性」の論理こそ、最も私が嫌うものだ。どうして自分の責任ではないことが原因で、自分が不利でアンフェアなポジションに立たされなければいけないのか?

 韓国の植民地支配に関しては、自分には何の責任もないことで(私は現在50代だが私より若い世代の人々はなおさら)、非対称性なる考え方で不利を押し付けられることは我慢ならない。

 

 日韓問題におけるヘイトがわかりやすい例なので最初にあげたが、この「非対称性」なる毒は様々な分野で垣間見られる。少数弱者やマイノリティーに関する問題でも、非対称性の毒は忍び込む。

 障がい者、LGBT、シングルマザーなど、当然のことながら私は、これらについて何ら偏見もないし差別もしていない。ただ、これらに関する時に非対称性を持って対峙されると、「?」となってしまう。

 

 さらには、マイノリティーでも弱者でもないものについても、非対称性が持ち込まれることがある。

 俗に「子育て様」とも言われる問題。「子どもがいないのに」とか「子どもなんだから」とか「子育ての立場から」とかを持ち出されて、すべて無条件にこちら側がマイナスのハンディを負わされてしまうこともある。

 それがたとえ心情的には理解できるようなことでも、このような特権意識をもって非対称の議論をされると引いてしまう。

 

 また、この非対称性は逆のパターンで襲ってくることもある。

 自分の職業柄、よく言われることに「議員なのだから」「公人として」というものがある。

 もちろん私にしても極端な個人攻撃、誹謗中傷、人権無視の議論はしないのだが、それでも細かい言葉尻や表現を上記のような非対称性で攻撃されると、その時点ですべてのコミュニケーションや接点を避けたいと感じてしまう。

 政治家だからと言って、公式の場(本会議など)以外で萎縮して何でも自由に言いたいことが言えないというのは、本当におかしなことだと思う。

 最初に戻るが、私は「アンフェア」な状況が一番嫌いなのだ。

 だからこれからも気にしないで、言いたいことは自由に発言したい。たとえそれで「炎上」にでもなって、選挙に落選するならば、潔くこの職を辞していきたい。