久しぶりに文章を書く。考えたことを言葉にする。

 

 今日の午後に巡らせた思考。

 以前、知人の医師と話した時のこと。医師、曰く「私の仕事は社会的なものだろうか?」

 私が尋ねる、「社会的とはどういう意味でかな?」

 医師、「社会のためになっている、平たくは人のためになっているという事かな?」

 私、「そりゃ、そうでしょう」

 それにしても、医者という「人のため」というには、あまりにも自明な職業において、彼がそのように考えるのが不思議であった。

 それでは、翻ってみて、私自身は「社会的」であろうか?

 まあ、社会的であるかどうかはわからないが、少なくとも反社会的な存在ではないだろう。

 それにしても、これも実はきわめて自明の話なのだ。

 政治家、議員が社会的であるのは当たり前だろう。そもそも「選挙」というもっとも社会的な手続きを得て、多くの有権者、つまりは最大公約数的な社会の信任を獲得しないと、その職業的な立場に立てないないのであるから。

 それでも、自分が真に社会的な存在なのかを自問してしまう理由はどこにあるのだろうか。

 確かに、市井の町医者やしがない地方議員がいなくなっても、世の中、つまり社会は昨日と何変わらず営みを続けていくだろう。

 トランプやプーチンがいなくなれば話は別だが、おこの世の中、たとえ与党の大物政治家、某大臣がいなくなっても世界は変わらないだろう。

 このように極度に組織化された現代社会における「存在の疎外」というボヤキなのか、いや、ちょっと違うような気もする。

 

 では、そんな気分になった、今日の午後を振り返ってみる。

 お昼すぎ、後輩の文京区議会議員の上田ゆきこさんからの電話。選挙についてのアドバイスをする。別に私が適切なアドバイスをしようがしまいが、彼女は楽々と当選するだろうし、冷たくアドバイスなどしなくても彼女との人間関係が悪化することもない。つまりは「よけい」なのだ。

 その後、20年以上利用する高田馬場のキッチン早苗という定食屋でオムライスを食べる。どうしてもオムライスを食べたかったわけではない。いつもオーダーする「ミラネーゼ・スパゲティ」でもよかった。いや、自宅で鮭茶ずけでもよかった。つまりは「よけい」なのだ。

 それから2月15日に期日が迫っている「東京ゴムRSS」の期近を利食いして、期先の限月に乗り換える。一枚の利食いで87000円ほどの利益が出た。これにしても87000円で買いたいものなどない。つまりは「よけい」なのだ。

 それから地下鉄東西線に乗り、落合駅近くのミラベルというスーパーで街頭活動を一時間くらい行い、途中で支援者数人と会う。これにしてもこの一時間の活動が4月改選の区議会議員選挙にどれほどのプラスになったかは疑わしい。つまりは「よけい」なのだ。

 これが、今日の午後1時から4時くらいの私の時間だ。

 

 要するに、様々なことが「過剰」であるのだ。

 

 先ほどの医師も、目の前に倒れたけが人の手術を毎日こなしているならば、あのような感慨もなかっただろう。緊急性の薄い高血圧の高齢者に対して、血圧を下げる薬の処方箋を書いている日常があるから、そのように思うのだろう。

 私にしても、予算特別委員会などで、些末なことを議論しているような澱んだ場にいるから、そのように感じるのだろう。

 それにしても、巷は過剰に溢れている。過剰は無駄や倦怠につながりやすい。

 この問題に関して、少し考えてみたい。