昨日はむすめっこの小学校最後の授業参観でした。

 

そのなかで、「私の成長と抱負」みたいなのをそれぞれ一分間程度で発表があった。

 

とってもみんなよかった。

特に良かったのは、「破壊神」

小さいとき、障子を破るのがとっても楽しかった。

そんなことばかりしていたので、破壊神と呼ばれていました。

親には怒られちゃったけど、だけど、まだまだ障子を破りたいって思ってます。

みたいなことを発表した子。

もっとやれw

なんの反省もなく、自分の楽しいにまっすぐで、猫がいたずらするような感覚のままでのびのび生きてる感じがとっても良かった。

 

 

 

お家に帰って、娘とお茶をしながら今日の発表よかったねぇって話してた時に、娘が私がみんなの発表を聞きながらちょっと気になってたことを、自分から話し始めた。

 

「これまでこんなにだめだったけど、

こんだけできるようになった!

みたいな文脈で話をする人がいたけど、あんな感じには私はしないって思って文章を作ったの。」

 

おおお!やるなぁ娘。

 

なんでその構文が嫌だなって思ったの?って聞いてみたら、

 

「だって昔の私も素敵で、今の私も好きだし、私は私のことを尊敬しているからあんな感じじはちょっと違和感を感じるんだよね」

 

すごいやん。

 

本能的に言葉で、自分のことを大事にしているのか、ちょっと下げてしまっているのかわかることも素敵だし、私は私のことを尊敬しているから、って言葉が自分の言葉として出てくるのが自分の子どもながらすごいなって思った。

 

 

そうなの。

成長って単語を使うときに、

私たちはうっかり過去の自分を無意識にダメなもので、

今はダメじゃなくなったよって文脈で語ろうとしてしまう。

 

過去の自分にだって、その状態であった理由、その選択をした理由があったはずなのに、いいとか悪いとか点数をつけてしまう。

 

基本の私はきっと変わらないとこがあるし、

その変わらない私は、どんな状態、どんな状況であろうと、尊敬するべき私であるはずなんだよ。