振り返ってみると、学校卒業以来「母校」を訪ねたことがない。仕事で大学の事務棟を訪ねたり、高校のクラス会に顔を出したことはあるが、大学のホームカミングデイや10クラスもあった高校の同期会には出たことがない。無論、何の自慢にもならない。おしゃべりが苦手でパーティに参加しても何を話したらよいか分からず居心地が悪い。お天気のことなどを持ち出しても、空疎に思えて自分でしらける。新入社員のころ、上司に「お前は世間話ができるか」と問われて返事に窮した覚えがある。営業職として商談の前に何気ない雑談から入るのが常道かもしれないが、時間の無駄に思えて苦手だったぼくは「早速ですが……」と直截に用件を切り出すのが常だった。職場の昼休みは同僚と連れ立って食事に行くことも多かったが、内心は一人で気軽に昼食をとる方を好んだ。そういう訳で見知らぬ人間と話す場を敬遠した面もあるにせよ、かつては大好きで一択で選んだ「母校」と卒業後は一線を画したのは、過去に居場所を求めて「群れる」ことを無意識に避けていたのかもしれない。学歴社会に組することへの躊躇もあって、職場で自ら出身校を口にすることは皆無だったし、他人の出身校についても全く関心がなかった。

しかし学校卒業後、ぼくは今日まで就職などで何回か履歴書に卒業学校名を記載した。この学校名が採用に影響を及ぼしたかどうかは分からないが、ぼくの乏しい経験から言っても、一回や二回の面接で人の人格や能力を判断することは確かに難しい。近年は入社試験の際、学歴欄のない応募用紙を使用する企業もあると聞くが、学校名で人を判断する気はなくても、記載された学歴の影響を無意識裡に受ける可能性があることを逆説的に証明している。採用者に何らかの影響を及ぼし、不義理を重ねている「母校」にお世話になっていた可能性がないとは言えない。

企業の世界でもブランド戦略は経営課題の大きな柱の一つである。大量生産消費社会において、提供される製品やサービスの価値を消費者自らが判断することは難しくなっている。多種多様な商品やサービスを一人の人間がすべて経験し比較評価することは最早不可能であろう。この結果、人は他人やマスコミの情報を求め、結果として記号化されたブランドで価値を判断するようになった。ブランド製品の代名詞のような化粧品はいうに及ばず、食品から保険に至るまで、企業は自社や商品のブランドを浸透させるために莫大な広告宣伝費を投入し、結果としてそれが製品やサービスのコストに跳ね返る。ブランドが商品価値を持つようになった。ブランドにこだわるのは企業や商品のみならず、少子化の中で生徒の募集に躍起になる学校や、パワ―ゲームが横行する国際政治の中で影響力を行使したい国家も例外ではない。箱根駅伝は大学名の広報宣伝の場と化し、オリンピックは国威発揚の場と堕している。

しかし待てよ、と思う。これはどこかおかしくはないか。自分自身にとって真に必要なものの判断が自分でできていないということではないか。ブランドがあろうがなかろうが、自分にとってうまいビールは人それぞれであり、自分にとって必要な機能が備わっていれば一番売れているテレビを選ぶ必要はない。絵画や音楽の商品価値も作者のブランドによって大きく変わるが、本当に自分が好み自分を癒してくれる芸術はブランドとは無縁のはずだ。民主主義の基本である選挙にしても、自分の好ましいイメージ(それは実像である必要はない)を如何に売り込めるかが成否を分けることが少なくない。

人は自分の親も母国も選べない。母国が大国だろうが小国だろうが、国民ひとり一人が幸せであることの方が大切ではないか。情報を提供する広告の役割は認めるにしても、自社製品を売らんがために購買意欲をいたずらにかきたてることが社会にとって本当に有用なのだろうか。情報の流通は止めようがないが、情報を受け止める方の判断力・読解力が問われている。