dm-coaching -14ページ目

dm-coaching

苫米地式コーチング認定コーチ 松村 大輔 のブログ

クラシック音楽というと西洋、ヨーロッパが本場。しかしそこで開催される、伝統ある有名な国際音楽コンクールの入賞者や優勝者に日本人が選ばれることは今では意外と普通の出来事になってきているのかもしれません。(例:チャイコフスキー国際コンクール、エリザベート王妃国際音楽コンクールetc)

大都会と比べるとやはり総数は少なくなりますが、松山でも毎月多くのクラシック音楽の演奏会が複数の会場で開催されています。生活圏の範囲内で素晴らしい生演奏を仕事帰りや休日のひと時に聴ける環境は本当にありがたく感じています。

県内外(国内)の専門学校や音楽大学に飽き足らず、直接本場海外の音楽大学に留学し国内外で活躍する若手音楽家が多くなっているのも頷けます。演奏会の出演者のプロフィールをみても音大卒や留学経験をもつ愛媛出身の方を多くみかけます。

録音であれ生演奏であれアクセスが容易になりクラシックが生活空間の至るところで流れていることに気付きます。イベント会場で聞こえてくる演奏、飲食店や喫茶店のBGM、電話応対時の待ち時間に流れる曲、映画のテーマ音楽、スマホの着信音などにさりげなく使われていたりします。

聴きに出掛けた演奏会で出演者のサイン入りCDを購入すれば、私的な場では愛着も手伝ってずっと同じ曲達を聴き続けたりします。しかしこうしたある種のクラシック漬けの時間が経過するとある時ふとクラシックそのものに何か物足りなさを抱いてしまうことがあります。

そんな時に聴いて心落ち着くのが他のジャンルの曲(ジャズ、ポップス)で特に最近のわたしの場合邦楽です。ここでいう邦楽というのは尺八や篳篥などの和楽器で構成された曲です。

尺八や琴、竜笛の音にクラシックではなかった心の余白に染入ってくるような絶妙な揺らぎを感じる。こんな時‘あーやはり自分は日本人だからそうなのかもしれない’(わたしは日本人だから邦楽を聴くと心が満たされる)と感じることがあります。(*わたしが聴いて落ち着く邦楽の中に実はクラシックをベースにつくられているものもあるかもしれませんが(;´・ω・))

“どうして日本人なのに(西洋の)クラシック音楽に入れ込む必要があるのか?”

一介の聴き手の自分でそう感じてしまうことがあるのだから、クラシックを聴くのが仕事の方(音楽番組制作者、批評家)、そして何より海外でも活躍するプロのクラシック音楽演奏家には、ふとした時にこうした自己認識が揺らぐ時間が訪れるのではないかと想像してしまいます。

このような自らの内省的な自問や他者(外国の方、普段クラシックと関わりが薄い日本の方)から投げかけられる質問により不意に訪れるひと時です。ただ好きでやっているはずの自分の行為に対する自分の評価が大きく揺らがされる時間(自分のやっていることに疑義が生じる時間)です。

しかし、

日本人とクラシック音楽の関わりの歴史は通説以上に深いかもしれない!とクラシック好きを肯定する仮説を音楽を通して展開する古楽アンサンブルがあります。

今年春に松山でも演奏会を開催された「アントネッロ」がそうです。(個人的に趣味でリコーダーをやっていることもあり「アントネッロ」さんの演奏会の存在を知り出掛けたのでした。)

日本人とクラシック音楽の関わりが始まったのは(明治以降ではなく)江戸時代の鎖国が行わていた時代にまで遡ることができるという仮説のもと現在演奏会を企画されています。

鎖国時代の、出島でのポルトガルの宣教師と日本人との接触に関わりのルーツのひとつがあるのではないかという仮説です。(詳しくはこちらをご覧下さい。)

もしこの仮説が本当だとすると日本人とクラシック音楽には(通説と違って)本場のヨーロッパに引けを取らないような長期にわたる関わりの蓄積が元々あったことになります。日本人が現在クラシック音楽を聴くことや演奏することに歴史的な意義が見出せるということではないでしょうか。クラシックの本場のひとつに今や日本が名を連ねてもおかしくないかもしれないと認識が変わってきます。

専門ではないので詳細はわからないのですが、時間の経過による当時の資料の散逸などで仮説を裏付けることには難しさを伴う面もあるようです。しかし、好きでクラシック音楽と積極的に関わろうとする日本人の行動原理(背景となる動機)を、真実味のある仮説をもとに、作品を通して肯定し後押ししてくれる「アントネッロ」さんの活動は、興味深く素晴らしいものだと思います。

「アントネッロ」さんの音楽活動は、私達が好きでやっていることを定説に惑わされずに(くじけずに、気にし過ぎずに、定説に反するという理由だけで簡単に止めてしまうことなく)続けていくしなやかな在り方のヒントを示してくれているように思えてきます。





6月初め、初めてバラの苗木を農園で購入し自宅のベランダで育て始めました。

街の広報で萬翠荘(愛媛県松山市にある歴史的建造物)でバラ展が開催されていることを知ったのがきっかけだったと思います。一度伺って以来、毎年行くようになりました。初めて会場に行った時にバラの素晴らしさ(香り、形、種類の豊富さなど)に圧倒されるような思いをしたからです。

特別植物を育てた経験や知識がある訳ではなかったのですがここ4~5年毎年行って、自分でも育ててみたくなってきたのです。だいぶ昔(小学生の頃)、学校の課題で朝顔を育てた以来のことでした。

苗の販売をする街のバラ園の一般開放は6月上旬まで(次回の開園は来年4月末)と知り、バラ(アイスバーグ)の1年生苗、鉢、土、肥料の一式をまとめて購入し鉢植えスタートの環境を整えました。

一式購入前にバラ園のスタッフに教えて頂いたことや農園主お勧めのバラ栽培の本の知識を元に、ポット苗(プラスチック製の容器で台木に芽接ぎして育てられた新苗)から鉢に自ら植え替えました。

何事もそうですが事前に人から聞いた話や本・インターネットで得た知識、それらを通して自らイメージしていた事と、実際にやってみることの間には多かれ少なかれギャップがあります。

ポット苗からの苗と土の外し方、鉢への苗と土の固定の仕方、盛る土の量や肥料の加減など、鉢植え開始時からやってみて気付くことが多くありました。

鉢植え完了後の今でも、水のやり方、剪定の仕方(咲き終わった花の扱い、枝葉のお手入れの仕方)など、その時々のばらの様子や変化を観察しながらの対応です。

実際育て始めてみるとバラ栽培入門者に心強いバラ栽培のプロ、植物愛好家の方々が松山にも多くいらっしゃることがわかってくるからおもしろいですしありがたいです。

ある時街の憩いの場にもなっているとあるお寺に行くと住職が、思い切りよく紫陽花(あじさい)をばさばさ剪定しているのが目に留まりました。最近バラを栽培始めたことを伝えると紫陽花の特徴や剪定方法、境内での植物栽培の経緯ばかりでなく目下関心のあるバラ栽培のヒントまで教えてくれました。地植えですが境内にもバラがあったのです。


今年第62回を迎えた萬翠荘バラ展。旧伊予松山藩主の子孫、久松定謨氏がフランス滞在中にバラに魅せられ愛好家になり帰国後萬翠荘でもバラを栽培・鑑賞されたことがバラ展の由来としてあるそうです。愛媛とバラの関係性の深さにも目が開かれてきます。


自宅のベランダでのバラ栽培を通してゴール設定(バラ自身のwant toも含む。そんな気さえしています^^)やビジュアライゼーション、抽象度などコーチングの基本を再確認しているこの頃です。


自宅のベランダで初めて開花したアイスバーグ

*ベランダの限られたスペースでどうバラを咲かせたいのか、どのくらいの大きさの株に成長させたいのか、将来的にはどうしたいかetc。あれこれ思案しながら育てています。
これから先の未来に―例えば3~5年後の未来に―、実現したいと思うことをゴールとして設定する。そしてそのゴールから逆算して、今に至るいくつかの適当な中間地点に(あなたが)達成していて当然と思えることを自由に書き連ねてみる。今日一日の予定に、未来にゴールを達成している自分だったら当然やっているはずだと思えることを、書いてみる。(全てを手持ちの手帳や白紙に書き出してみる。)

今の生活の延長ではなく、今の自分から想定できないところ、今の自分には達成方法がわからないけれど、(なんとなくでも)実現したいと思えるゴールをその時々、思いつくまま自由に設定する。そのゴールを達成した自分だったら2年後は何をしているか、1年後にはどうしているか、半年後はどうか、3か月後はどうか、1か月後は、2週間後は、・・・、今日一日はどう過ごしているか?そのように考えてみる。

毎日ほんの数分でも、(未来側の)ゴールを達成した自分だったらどうしているか、考える時間をもってみる。

些細なことかもしれないけど、少し続けてみるとマインド(脳と心)に確実に変化が現れれてくるのを実感できる。いつの間にかゴールが複数できて現実の認識や行動、日常の世界も実際変わってくる。

未来の視点で過ごす時間をもつ。たったこれだけのことが、実はマインド(脳と心)に大きな違いをもたらすきっかけになる。

時々刻々と超並列的に情報処理する脳。(未来の視点の蓄積が)その情報処理空間の主要となる軸、時間軸のベースを、過去→未来から、未来→過去に逆転していくからだ。

人の認識は、過去の記憶の合成でつくられる。特に、強い情動を伴った記憶の影響を受けやすい。失敗・恐怖の記憶に捉われ、成功体験にも捉われる。

意識しないと情動記憶に捉われた過去→未来の時間軸ベースで、物事を認識、処理してしまう。トラブルやストレス、大きなトラウマを抱えた人や病気に苦しむ方は特にそうかもしれない。場合によっては(脳内情報処理の)時間軸の固定化に気付けない状況に置かれている可能性もある。

未来の自分の視点から想像してみる時間を1日数分でもつくってみること。悩みも苦悩もあって良いけど、物事が良い方向に回り出す変化の兆しを自他に与えてくれると私は考えています。

(参考:苫米地英人先生の手帳 発行 Club Tomabechi 発売 株式会社サイゾー)