ぼくは、学校でこうやって言われるのが嫌でした。
なぜなら、自分が本当にわかっているのかどうか、
わからないからです。
手を挙げて、答えて、間違っていると、
まるでクイズ番組ではずれたのとおなじように、
「ざんねん!」になります。
先生のためいきや、がっかり顔や、友達の笑い声が、とてもつらかったです。
植松努
植松さんは、一度だけ講演を聴く機会をがあったが、その時もご挨拶を直接交わすことはできなかった。
ただ90分の講演は、流れに無駄がなく、面白く、そして勇気が湧いてくるので、多くの人たち、特に子供たちに聴かせてあげたいと思う。
そんな植松さんが今朝、今の日本の教育について語ってくれた。
確かに、算数、数学、理科といった科目は、法則で成り立っている学問だから、明確な答えを導くトレーニングには最適な学問だと思う。
ボクも社会に出て、どの勉強が一番役に立ったかを考えると、算数、数学と答えるだろう。
ビジネスの世界に数字は必要不可欠なものだし、日常生活でも同じだ。
9020円の買い物をするときに、10000円札1枚と10円硬貨2枚出すことで、レジの人はお釣りを1000円札一枚で合理的に渡すことが出来る。
ちょっと話がそれるが、20年ほど前にアメリカに行ったとき、9ドル5セントの買い物で、10ドル紙幣と5セント硬貨を出したら、レジのおばさんに5セント硬貨をひっこめられ、95セント分お釣りで帰ってきた。
お釣りを合理的にいただこうという考えって、日本だけの文化なのかな?
僕らの世代は、まさしく「ゆとり前世代」なので、日常でも明確な答えを求める傾向が強い。
でも実際には、明確な答えなんかでないことの方が、たくさんある。
学校の勉強で言えば、国語や英語のリーダーがそれにあたるだろう。
得意ではなかったけど、明確な答えじゃなくても○がもらえるので、ボクは割と好きな科目だった。
ついついボクも「分からないことがあったら聞いて」と言ってしまうが、何も経験していない人にとって、この言葉はとても辛いと思う。
だって「自分が何が分かっていないのか分からない」、あるいは「自分がどれを分かればいいのか分からない」というのが本音だろうから。
「分からないことがあったら聞いて」という声掛けは、相手の質問をかえって封じ込めてしまう、逃げの言葉だと感じるようになった。
まずは基本的なことをきっちり教えて、「自分は何が分からないのか?」を分かるようにすることが先。
教師も経営者も、手間を省かず、相手が考えて答えを導こうとする姿を、じっと見守れるようになったら、子供たちもきっと安心できると思う。
勉強は苦しいこともあるけど、基本的には楽しいものであってほしいね!!