先生 その11


先日は、ばあちゃんの話をさせていただいたので、相方が焼きもちやいてるといけません(笑)

というわけで、今日はじいさんの話。


じいさんは大正2年に、9人兄弟の4番目に産まれました。上に3人の姉がいたため、初めての男の子。

なので「一(いち)」と名付けられました。ひいじいさん、ひいばあさん、ともに深く考えない人だったようですにひひ


じいさんが19歳の時に出会ったのが運送業。

当時から新橋にあった、川崎陸送㈱(当時は「川崎陸送組」)に住み込みで働かせてもらったそうです。今にして思えば、じいさんが今の会社を創業した原点は、このときだったのです。



すべては我が師 -ぼくの好きな先生--川崎陸送時代のじいちゃん
<この写真は、川崎陸送さんの社長室前に飾られているもので、トラックの荷台に乗ったじいさんが写ってます(昭和8年撮影)>


朝早くから、夕方まで、砂糖やお菓子、レコードの原盤などを運ぶ仕事をしていました。さらにじいさんは、仕事が終わると、毎晩銀座に繰り出していました。

「不健康なことを!」と顔をしかめた人、それは大きな勘違い! なんとじいさんは、「銀座拳闘倶楽部」というボクシングジムに通っていたのです得意げ

そのせいでしょうか、80過ぎても上半身の筋肉が格闘家のようでした。


じいさんも、ばあちゃん同様、晩年は自分の好きなことをやって、充実した老後を過ごせたと思います。

60過ぎてから、急に民謡太鼓を習い始めたり、80代になっても自分で運転して、どこへでも出かけるアクティブな人でした。

海外旅行も大好きで、小学生程度の英語力にも関わらず、どこにでも行ってしまう。「怖くないの?」と聞けば、「行けばなんとかなるよ」というのが決まり文句でした。

一方では、毎朝小学校の前で立哨をしたり、神社やお寺に奉納や寄付を施したり、地域の活動も地道にこなしていました。

それはまるで、今まで苦労が続いた人生を取り返えしたいという気持ちに溢れているように見えました。かなりエネルギッシュな老後を過ごせたのではないかと思います。いや、青春を謳歌していたのかもしれません。


2年間寝たきりだったばあちゃんとは対照的に、じいさんの最期は、あっけない幕のひき方でした。

ケアセンターに行っている時に「高熱が出ている」との知らせを受け、病院に連れていくと、即入院。

でもその日の夕方、うちの子供たちを連れて見舞いに行くと、体を起してプリンを美味しそうに食べていました。


私 「なんだ、まだまだ大丈夫じゃない。早く退院できるといいね」


爺 「あたりめぇだよ。オレは100歳まで生きるって決めてんだから


でも、それがじいさんと言葉を交わせた最期の時だったのです。


翌日、見舞いに来ていた親父たちに、じいさんはこう言いました。


「オレはもう疲れたから、寝るよ。おやすみ・・・」


これがじいさんさんの遺言でした。

文字通り、眠るように息を引き取ったのです。享年93歳の大往生でした。

「死ぬときは、こうやって騒がねぇで静かに見送ってもらえよ」と、教えてもらったような気がしました。


じいさん、オレの命を使う場所(家庭・会社)を作ってくれて、ありがとう!

何十年後の社員さんたちも、じいさんに感謝できる企業文化を継承していくから、天国で見守ってください。