なんでもなくない、なんでもないもの | 今夜、ホールの片隅で

今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

 

渋谷で開催中の2つの写真展を観た。ヒカリエホールの「ウェス・アンダーソンすぎる風景展 in 渋谷 あなたのまわりは旅のヒントにあふれている」と、松涛美術館の「「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」である。

 

前者は、「グランド・ブダペスト・ホテル」などで知られる映画監督ウェス・アンダーソンの作品に出てきそうな風景写真を集めたもの。インスタのコミュニティから発展した企画で、韓国のソウルで人気を呼び、今春には天王洲でも開催されていた。シンメトリーな構図やポップな色彩感が特徴の、世界各地で撮影されたキッチュでどこか郷愁を誘う不思議な風景が、いくつかのテーマに分類され整然と並べられている。

 

なるほど個々の写真には発見があって面白いのだが、これだけ一遍に見せられるといささか食傷というか興醒めというか…。本来この手の嗜好って個人が密やかに愉しむものだったはずなのに、SNS時代の功罪だろうか、何でもかんでもネット上で拡散され、リアルなイベントとして商品化され消費されてゆく。本来その世界が持っていたワクワク感が、いつの間にか希釈され変質してしまったような違和感を感じずにはいられなかった。

 

一方後者は、瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄の4人を結び付ける「日本写真史における特異な系譜」を辿るもの。4人のうち瀧口と牛腸以外の2人の名前には馴染みが薄いが、絵画と写真で活躍した阿部展也は、武満徹の同名曲でも知られる「妖精の距離」という詩画集に、瀧口の詩と共に絵を寄せた人(詩画集の実物の展示もあった)。写真家・大辻清司は、牛腸の写真の先生に当たる人でもある。

 

4人の作品はもちろん、関連する国内外の作家の写真や、当時のグラフ誌などの資料、発言や批評といったテキストまで、展示物は多岐に渡る。阿部の言葉に、次のような一節がある。「日常的な何でも無い様子をした中に有る抒情や夢及びオブジェ的な不可思議」「なんでもないものがなんでもなく撮られて何かを訴えなければ不可(いけ)ない」。これってつまり、ウェス・アンダーソンすぎる風景にも通じる感覚であり、写真という表現が本来的に備えている性質なのかもしれないとも思う。

 

自分がもっと若いSNS世代だったら、ウェス・アンダーソン的世界にも素直に嵌っていたのだろう。でも今は、例えば牛腸茂雄の「SELF AND OTHERS」の少女たちの眼差しや、最後の写真集となった「見慣れた街の中で」に切り取られた不確かで雑然とした世界の方に、より「なんでもなくないもの」を感じている。