ノット(映像)&東響 前代未聞のドヴォルザーク8番 | 今夜、ホールの片隅で

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東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

■東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ第116回(7/18東京オペラシティコンサートホール)


[指揮]ジョナサン・ノット(映像出演)*


ブリテン/フランク・ブリッジの主題による変奏曲

ドヴォルザーク/交響曲第8番 ト長調*

 

コンサートの再開が相次ぎ、ステージ上と客席のソーシャルディスタンス問題にも新しいルールが出来つつつある。しかし出入国制限による海外アーティストの渡航不可問題は依然続いており、今月東響を振るはずだったノット監督も当然代役を立てるのだと思っていた。ところが東響からの発表は予想の斜め上を行く「映像出演」で、ノットがリモートで指揮をするという。しかもライブ映像では時差が生じるため、事前に収録された映像にオケが合わせて演奏するという「奇策」である。


でも、それで本当に生きた演奏になるのだろうか。リハーサル段階で指示は出せるというものの、事前に振り方が決まっていては、本番の様々なコンディションを演奏にフィードバックすることは出来ない。予定調和を嫌い、リハーサルとは違うことをぶっつけ本番で仕掛けてくるというノット監督の手法にも馴染まないのでは…? ある意味「邪道」だが、そんなことは当事者が一番分かっているだろう。それを承知の上で敢えて踏み切った東響のチャレンジ精神を買いたい。それにコロナ後の様々な試みの中で、最も興味をそそられたのも事実である。

 

変更されたプログラムの前半は、指揮者無し弦楽アンサンブルによるブリテン作品。8-8-6-4-3の弦は、コンマス水谷氏を除きこの日も全員マスク着用である。これまで機会が無く聴き逃していた曲だが、イントロからいかにもブリテンらしい和声が匂い立ち、地味な主題を彩る表情豊かな変奏書法が冴える私好みの佳作。別の機会にも聴いてみたいと思っていたら、首尾よく9月の読響アンサンブルでも採り上げられる予定で、そちらも楽しみ。


休憩中に4台のモニターが運び込まれ、オケ側に向けて3台、客席側に向けて1台、円陣を組むように指揮台の位置にセッティングされる。オケのチューニングが済むと、白バックの画面にノットが現れ、まずオケを起立させる。やがてモニターの中のノットが振り始め、哀感を帯びたチェロが歌い始める。音楽はつつがなく展開してゆくが、そこにはいつもあるはずのノットが放出するうなり声やブレス音、無言のオーラが決定的に欠けている。「指揮者パート」がいかに重要なアンサンブルの一部だったかを、指揮者の不在が雄弁に物語る。


それに、現場で鳴っている音を聴いていない指揮者が振り続けるというパラドックスがやはり気になってしまう。映像と生音のタイミングばかりを追いかけ、音楽そのものになかなか集中できないまま、あっという間に全曲が終わってしまったという印象である。確かに表面的には演奏に大きな破綻は無く、コロナ下の困難な状況をアイデアで乗り切ったという達成感はあったものの、音楽を味わったという満足感とはまた別のものだったと言わざるを得ない。


「ベートーヴェンが第九を自ら指揮した時、彼は既に耳が聞こえなかった。ブラボーの声にも気づくことなく、歌手に言われて初めて聴衆に振り返った。私はやれると思う」


プログラム冊子に掲載された事務局長のコラムによれば、今回のチャレンジに当たりノット監督はそう言ったそうだ。つまり指揮を事前収録した時、ドヴォルザーク8番は彼の脳内にしか流れていなかった(無音のまま振った)ということだろうか。それとも何らかの音源を頼りに(聴きながら)振ったということなのか(ノット&東響はこの曲の共演歴がある)。もし前者が正解なら、ノットだけが聴いていた「イマジナリー・サウンド」を、オケが本番でリアル・サウンドへと「受肉」させたということになる。まさしくオーケストラ史上前代未聞の「離れ業」である。


終演後には、演奏を聴いていたマエストロのライブ映像に画面が切り替わり、手を振り親指を立て投げキスをする姿が映し出された。楽員さんたちが退場した後も拍手は鳴り止まず、再びメンバー全員がステージに現れた「逆ソロ」カーテンコールもこの日ならではの光景だった。