■アレクサンドル・トラーゼ ピアノ・リサイタル(5/22武蔵野市民文化会館小ホール)
[第2ピアノ]キム・シウォン*
ハイドン/ピアノ・ソナタ第49番(旧59番) 変ホ長調
プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調「戦争ソナタ」
(休憩)
プロコフィエフ(トラーゼ編)/ピアノ協奏曲第2番 ト短調 第1楽章より カデンツァ
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番 ハ長調(2台ピアノ版)*
(以下アンコール)
ストラヴィンスキー/「ペトルーシュカ」からの3楽章より 第1楽章*
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番 第3楽章より*
スカルラッティ/ソナタニ短調 K32
プロコフィエフ/「束の間の幻影」より 第10番
ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番より 第2楽章*
プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第7番より 第3楽章
先日のN響定期でコンチェルトを聴いたトラーゼ、日本でリサイタルを開くのは今回が初めてとか。当初発表されていたプログラムでは、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第3番、ラヴェル「鏡」より、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」からの3楽章などが予定されていたが、これらがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番(2台ピアノ版)に変更となり、ソロ・リサイタルのはずが急遽もう1人、未知のピアニストが出演することに。翌日にトッパンホールでも同一プログラムのリサイタルがあるが、日程の都合でこちらを聴きに行った。
1曲目のハイドンから、語り口に独特のこだわりを感じる。トラーゼ独自の音色やフレージングが、古典派のピアノ・ソナタの文脈とはまた別の美意識の下に展開され、いわゆる「ハイドンらしさ」は希薄である。第2楽章など、ハイドンだと思って気楽に聴いていると、思わぬ深淵まで連れて行かれたりする。第3楽章は天上の響きのように柔らかく軽やかだが、全曲聴き終えると何とも言えない哀しみのようなものが漂ってきたりもする。先日のアンコールで聴いたスカルラッティも然り、この人が弾くバロック~古典派はもっともっと聴いてみたい。
次の「戦争ソナタ」では、一転して強靭な打鍵が炸裂する。轟音を連打する場面では、ペダルを踏んでいない左足も同時に靴でバンバン床を踏み鳴らし、垂直方向へ凄まじいエネルギーを放射する。それでいてトラーゼのタッチは、力強くはあるが決して重くはなく、竹を割ったような潔さがある。パワー一辺倒の爆音系ではなく、力強さの中には絶妙なニュアンスも感じられる。第3楽章では、規則的なリズムを刻む右手をぐっと抑制し、不規則に跋扈する左手のバスを強調することで、単なる軽快な常動曲では終わらせなかった。
休憩を挟んで後半は、ピアノ・リサイタルとしては異例のプログラム。まずプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番から、第1楽章のカデンツァを弾くという。と言っても、原曲からカデンツァ部分のみを抜き出すのではなく、前後にはオケ・パートを模した編曲部分が付属しており、言わば独奏ピアノ版第1楽章なのである。こうして聴くと、ほとんどがオリジナルの楽譜であるにもかかわらず、「ピアノ協奏曲第2番」幻想曲とでも言うような、セルフ・カバー感の漂う不思議なプロコ体験である。
そしてピアノ協奏曲第3番の、作曲家自身による2台ピアノ編曲版。第2ピアノを弾くキム・シウォンは、トラーゼに師事している韓国出身の女性奏者。2台横並びのピアノの手前にソロ・パートを弾くトラーゼ、オケ・パートを弾く奥のキム・シウォンだけ譜面と譜めくり付きである。プログラム変更でこの曲が発表された時には、正直どんなものかと不安も大きかったのだが、実際に聴いてみると全くの杞憂だった。2台ピアノによって純化されたプロコフィエフの楽想が全編に渡ってキラキラと光輝を放ち、とりわけ4手が繰り出す怒涛の奔流が渦を巻く最終楽章のフィニッシュでは、圧倒的な高揚感に呑み込まれた。
アンコールも自由気ままなトラーゼ流で全6曲。当初予定されていた「ペトルーシュカ」を弟子に弾かせてみたり、日本絡みということでプロコの最終楽章のラストをリピートしたり、N響定期で披露したショスタコの「最も叙情的かつ悲劇的な」第2楽章を2台ピアノ版で聴かせたり、トークを交えながら、ソロとデュオを臨機応変に弾き分ける大サービスで、終演は21時40分近かった。これでもまだ、このスケールの大きなピアニストの芸術のほんの一端に触れたに過ぎないのだろう。機会があればプロコ以外のレパートリーもじっくりと聴いてみたい。
最後にチラシも載せておこう。こちらも久しぶりに武蔵野節全開の傑作である。それにしても、「ピアノの国ジョージアの最終兵器」はまだいいとして、「ユーラシア大陸最凶の巨砲」って…大丈夫なの…?
