今回は、Y.Nさんからいただいたセッション後の感想を
ご紹介させていただきます。


ヒロ様

もう感想が完全な日記と化しています。
ほんといつもすみません。
わりと文章は得意な方なんですが、でも、吐きだす感じで書いているため、
粗雑な文面だと思います。
今回の感想です。

4/8

役割という言葉の中に、全体性を感じました。
役割という意識でみたとき、他と区別した何かのように見えるかもしれないが、
その実、他者を正確に把握していなければ、
自分自身の役割というものは感じ得ないのかも。。

パズルの一片と理解した瞬間、この一片がなければ全体は完成しないと知る
そういうこと?なのだろうか。

あるいは一方で、自分の感じている感情や思考、判断や感覚、
有といわれるものはすべて繋がっていると知ること。

この感覚自体が、そもそも俺だけのものじゃなかったんだと知ること?
それがワンネス?のような感覚を受けました。

わからないですが、とにかく次々に閃いてくる時があります。
その時間帯は何かを頂いているような気がします。


慈愛、それでいいという感覚の奥に、すごい在る感じがしたときもあります。とにかく今という状態、今このキーボードを打っているという状態に
集中するという行為、それによってナニカがみなぎってくることを感じたり。

そしてそれは、考えながら、焦りながら打つと薄まったり。
とにかく、時間を忘れること。これが大切なんだと知ったり。

いかに常に先を先を考えているか、そうでないと
とんでもない過ちを犯してしまうと思い込んでいるかと知ったり。

すみません、いろいろ湧いてきて、とにかくお伝えして
償却するワークをしたく、お送りします。
ここまで曝け出させるヒロさんはたいした方ですわ。


4/12

昭和という時代が持っていた「がんばったらいいことがある」という想念。
それが、平成になって「がんばったら」というところが
消えて行っているような気がします。

いろんな意味で「がんばっても意味がない」ということを
みんなが知りだしている。

それは、今、みんなのなかで「無気力」に変換されているけれど、
本当はそうじゃない。

がんばらなくても「いいこと」がある、
そういう時代なんだと、もしかしたら気づきだしているのかもしれない。

もう昭和のMの卒業なんだ、そうなのかもしれない
「いつもいっしょにいたかった~」
はもういっしょにいられなくなったのだ! (笑)

だから若い世代に「よかれと思って」いろいろ教え込むことを
ぼくたち昭和人は控えねばならない。そこに信頼はない。

ただ、昭和人はたくさん傷ついてきたから、
それを与えないようにと思っているやさしさなんだけど。。
それがむしろ罪になっているんだなあ。

助けよう。という概念はもはや消滅なのだ。
(文章に書くと強烈だ;)
うまくいえないが、助けようという言葉の裏にある、波動が問題なんだ。


いつもすんません。
読み流してください。ほんま。
明日もよろしくお願いします。


Y.N



Y.Nさん、ご感想ありがとうございました。

色々な気づきが起こっていらっしゃっいますね。

Y.Nさんの吐き出すような感じが深く響いてきます。

表現を超えた真理に関しての事柄においては特にですが、
言葉の裏にある、波動の問題というのもその通りだと思います。


「パズルの一片と理解した瞬間、この一片がなければ全体は完成しない」

「自分の感じている感情や思考、判断や感覚、
 有といわれるものはすべて繋がっている」

ワンネスの側面を垣間見られましたね。

思考も、感情も、感覚も、その対象を含めて、
意識の中で起こっては過ぎ去るものであり、
普遍的な不動の意識はひとつしかありません。

そのひとつの意識がすべてですから、全体意識とも言えます。

自分と他人を分けて捉える個別の意識を、全体意識が支えています。

仰るとおり、パズルの一片がなければ、全体は完成しませんね。

一片一片のピースのすべてが繋がり、
ひとつのパズルとして全体を成しています。


「慈愛、それでいいという感覚の奥に、すごい在る感じがした」

感覚の奥に気づかれたところはポイントですね。

そこは今に在る感覚がダイレクトです。

今に繋がっていること以上のパワーはありません。

ご理解が着々と進んでいらっしゃって素晴らしいですね。

どうもありがとうございました。