
今回は、個人セッションを受けられているY.Yさんより、
セッション後のご感想を頂きましたので、
僕の返信を含めてご紹介させて頂きます。
> ヒロ様
>
> ・・・・・
・・・・・
> 前週は学校の関係で慣れない部分が多く、
> 色々と緊張しながら通っていたこともあり、
> マインド的な傾向に捕らわれがちになってました。
> 研究テーマとか授業にきちんとついていけるのかという
> 不安な要素に捕らわれていました。
>
Y.Yさんの状況や環境の変化において、
最近はとても著しいこともありましたので、
それは仕方のないことでもありますね。
これまでと異なる慣れない状況や環境の変化は、
最初は誰でも不安や緊張はつきものだと思います。
そのような状態でも、できるだけ意識的に、
その時々のご自身の状態に気づきながら、
起こることを見守っていかれるといいですね。
> 最初の共鳴では、マインドに凝り固まっていた部分が
> ほぐれてきた感覚がありました。
>
> アイコンタクトでは、共鳴している感覚がありつつも
> 不安感が出ているなということに客観的に気づきつつ、
> マインドと真我との間を行き来していた感じがありました。
>
客観的に気づきつつというのはいいですね。
たとえ不安感というマインドが出てきたとしても、
真我自体が消えてしまうことはありません。
※補足
「マインドと真我との間を行き来していた」とありますが、
ここでは恐らく、自らの意識的な焦点について
述べられていらっしゃるのだとは思いますが、
真我とマインドが分けられているものだと
誤解をされる方がいらっしゃる可能性もありましたので、
そのことについて簡単にご説明をさせて頂きます。
真我とマインドに、そもそも「間」というのはありません。
それは、マインドだけに限らず、
全てに対して言えることなのですが、「間」というのは、
それらが隔てられていること(分離)が前提になりますが、
本質的な視点では、分離しているものは何もありません。
全ては、気づいている意識(純粋意識)の中で
起こっていることでもありますので、
自分と気づいている意識に間がなければ、
全てに対しても間はないということになります。
ここで言う自分というのは、マインドの自分ではなく、
全てに気づいている意識そのものということです。
その全てに気づいている意識そのものと、
そこから起こっていることには大きな違いがある
というところが大切なポイントになります。
気づいている意識の中で全てが起こっているのですから、
その気づいている意識が、全ての源ということになります。
マインドや現れと、その源には大きな違いがあります。
その源が本当の自分、真我、在る(存在)、純粋な気づき、
純粋意識、無、空、愛、ゼロの意識と言われるところです。
(言葉の表現が大切なわけでもありません。)
源がそれであれば、全てもそれであり、全てはひとつです。
その意識と、そこから起こることに間(分離)はありませんが、
どちらに意識が向いているのかが大切になっていきます。
> ハートの共鳴では、自分を締め付けていたマインドが
> 徐々に外れてきた感覚がありました。
> 全体性を意識できた感じがありました。
>
とてもいい感じですね。
> ニュートラルの共鳴では、全体性を意識できつつも、
> ヘッドセットで耳の後ろが痛かったり、
> 花粉で目がどうしようもなかったりしており、
> 肉体的に調子がよくなかったですが、
> 共鳴した感覚はありました。
>
状態に左右されることなく、
共鳴を感じられたのはいいですね。
> 最後の瞑想では、全体性にフォーカスできて、
> 肉体的には眠ってしまう直前でした。
> 今日は全体性が意識できたのは良かったように思います。
>
それは良かったですね。
全体性を意識できる意識そのものが、
いつも変わらずに在るということですね。
>
> それでは本日もどうぞよろしくお願いします。
>
こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
どうもありがとうございました。
ヒロ