
こんばんは。ヒロです。
今回は、セッションを受けられているYHさんから頂いた
セッション後のご感想(ご報告)と僕の返信を
参考までにご紹介させて頂きます。
(ここから)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
YH様
こんばんは。ヒロです。
ご丁寧なご感想頂きありがとうございます。
> こんにちは。セッションの感想です。
> 遅くなりまして申し訳ありません。
>
大丈夫です^^
> 前回からのセッションから2週間ほどあいていたので、
> その間、セッションの感覚を思い出すことが
> 皆無でした・・・・。
>
> ただ、2週間、趣味に没頭していたためもあるのか、
> 毎日楽しくてしょうがない日を送っていました^^
>
素晴らしいですね^^
セッションの感覚を思い出せなくても、
そのような在り方でしたら全然問題はございません。
「毎日楽しくてしょうがない」と仰って頂いた、
その楽しい在り方そのものも、
真我から起こっていることです。
楽しい感覚そのものを、これからも
ナチュラルに存分に味わってくださいね^^
真我からの恩寵は、現実面を通してでも、
楽しい、幸せ、平和、喜び、愛おしさ、愛情、
優しさ、感謝、充実感、満足感などなど
様々な形として現れていきます。
> 最初の意識共鳴では、ただ、静かな感じがしました。
> 穏やかで安心できる感覚。
いい感じですね。
真我(本当の自分、空、ゼロ、愛)に戻れば、
いつでもそこは、静かで穏やかで安心できるところです。
> アイコンタクトは何も感じませんでした。
>
> 何もないから何も感じないのか?よく分かりませんが、
> ほんとに感想というようなものがなかったです。
>
その捉え方でも問題はございません。
そこは何も無く空っぽですので、「無(空)」です。
ある意味、無なので、無い、無い、無いで
何もないから分からないが正解とも言えますね(笑)
ちなみですが、これまでよくブログの記事にて
「在るしかない」と表現させて頂くことがありますが、
「在る」と「無」、一見矛盾しているように
捉えられると思いますが、真我にはその両面が在ります。
この「無」が「在る」ということですね。
言葉の表現的には、この「無」しかない、
「在る」しかないとなりますが、
真我の捉え方としてはどちらでもありです。
「無=在る(=ゼロ=空=愛)」です。
> ハートの共鳴では、ゆるぎない何かがあるのが
> はっきり分かりました。
>
> マインドがどうしようと、「私」がどうしようと、
> それはずっと変わらずそこにあって、
> ただ、静かに不動に見守っている。
>
> それは広く落ち着いた愛のあるもののように感じました。
>
> 比喩的な表現をすれば
> 完全な「父」という感じでしょうか。
> (実際の父親というわけではなく、
> 概念としての父です)
>
よく捉えられていらっしゃって素晴らしいですね。
「ゆるぎない何かがあるのがはっきり分かりました。」
これが先程の「在る」という表現の捉え方とも言えますね。
仰って頂いたとおり、真我(在る、ゼロ、無、空)は、
個人のマインドがどうしようと、どう思おうと、
どう感じようと、どう捉えようと、
それはずっと変わることはありません。
「静かに不動に見守っている。それは
広く落ち着いた愛のあるもののように感じました。」
その存在は、常に静かで、不動で、
どんなことがあろうと揺るぎなく、
果てしなく広大であり、落ち着いて堂々と、
ただ「どーん」として在ります。
そしてそれは、愛そのものである存在です。
無限の領域の愛ですので、無限の愛
もしくは、何の条件も要らない愛ですので、
無条件の愛とも言えます。
それが全ての源であり、真我であり、
本当のYHさんです。
「完全な『父』という感じ」
全ての源ですので、確かに「父」とも言えますね。
それは例えて、完全で完璧なる父です。
ただマインドから捉えた上では
比喩的な父という表現とも言えますが、
その父が、本当の自分ということですので、
そこは誤解をしないようにしてくださいね。
> この存在があって、私は完全な自由意志がある。
> そう感じました。
>
> ただ、暖かく見守ってくれているのはいいのですが、
> 「それ」は何もしてくれないわけ??
> とマインドからの反抗心も湧いてきました。
>
> 何かあるのはわかった。じゃあ、
> それはそこにいるだけ?導いてくれたりしないわけ?
> そんな声です。
>
確かに一見マインドからの声としては、
ただ在るだけで何もしていないように
捉えられるかもしれませんね。
「この存在があって、私は完全な自由意志がある。」と
YHさんが仰って頂いたとおり、
自由意思を持つYHさんという個人は、
その存在(真我)から起こってきております。
個人を含めた全ての現れは、
真我からの反映ということです。
全てが「それ(真我)」であり、
厳密に言いますと、
「それしかない」ということになります。
実際には、個人はどこにもいなくて、
気がついて頂いた「それ」しかありません。
「それ(真我)」は、マインドから捉えたうえでの、
何かをする、導くということを超越し、
ただ在るだけで全てを統括しています。
個人と、目の前にある現実を含めた全てが
それ(真我)の反映ということになりますし、
真我自体は、何をしていなくても、既に、
ただ在るだけで完璧なのです。
逆に、これ以上やりようが無いと言えるぐらい、
完璧で完全ということでもあります。
そして大切なこととしましては、
その完璧で完全あり、無限の愛である源、
本当のYHさんそのものに意識を向けて頂き、
それそのものとして、ただ在ることです。
真我の意識の在り方と、より理解を深めて頂きますと、
マインドからの反抗も徐々に
落ち着いてくるようになります。
そして、それ(真我、本当の自分)と繋がることによって、
YHさんにとっての必要なこともそこから起こってきます。
その時、マインドから捉えたうえでの、
何かをする(起こす)や導きということも、
真我からの恩寵として捉えられるようにもなっていきます。
> 不思議な感じでした。自分の内側に「在る」
>
> よく神は内側にある。そういわれますが、それが、
> 本当なんだ・・・・と感じたセッションでもありました。
>
> いままで、内側にあると理解しながらも、
> 感覚的に分からなかったので、
> 内に見つけようと思いながらも
> 外側に探していたのだと思いました。
>
そうですね。
神様もここ(真我、在る)で一つに繋がっております。
例えば聖書に因んで表現させて頂きますと、
神聖なる存在、神意識、人は神の子、
キリスト意識というのも、その意識となって
初めてご理解頂けることでもありますね。
それは、いつも自分の内側に存在しております。
外側には無く、いつも自分の中にあります。
マインドは外側のことに目を向けられがちになりますが、
ハートはいつも内側に在るということになります。
直接それを感覚的に捉えて頂けたことは
とても貴重であり大切なことですね。
その体感、体験そのものがきかっけとなり、
徐々にマインドからも府に落として頂き、
在り方そのものや、真我に対する理解において、
マインドの成熟を進めて頂くことができます。
> まだ、それがなんなのかはっきりはわかりませんが。
>
> 最後の瞑想では途中、配送屋さんがきて、
> 中断してしまいすみませんでした。。。。
>
大丈夫です^^
今はまだはっきり分からないとしましても、
無理に分かろうとされなくても大丈夫です。
いずれタイミングの良い時に
ご理解頂けるようになります。
いきなり(瞬間的に)分かるというよりは、
徐々に府に落としてご理解頂くというスタンスの方が
よろしいかもしれませんね。
(いきなり腑に落ちる場合もありますが)
> しばらく日が立ってから感想をかきましたので、
> 記憶があいまいになっております。
>
いいえ。十分なご感想です^^
いつもご丁寧にありがとうございます。
> また、次回楽しみにしております。
>
> よろしくお願いいたします。
>
> YH
>
こちらこそ、また次回も楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。
ヒロ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ここまで)
YHさん、ご丁寧なご感想頂きありがとうございました。
お試しセッションをご希望の方は、
こちらよりお願いいたします。
最後までどうもありがとうございました。