大器晩成型中間管理職の野望 -9ページ目

あの日の夢

9月1日(土) 会社が休みのため ゆっくり起きる。


我が家は自営業の雑貨店を営む。


昭和39年(1964年) 東京オリンピックの年 9月1日から始まった。


僕はその約2ヶ月後に生まれた。


小さな頃から両親が働く姿を目の前で見てきた。


店の定休日も月2回の月曜日。


年末年始休暇も1月1日だけ。


写真に残る幼少時期は、どこかに出かけていたのだろう。


でも小学校に進み、学校生活が始まった記憶の中では出かけた記憶が残っていない。


せいぜい定休日の夕方、学校が終わってから出かけるデパートくらい。


お客様第一の精神がいつの間にか身についている。


中学1年 入学の頃


もともとその土地で商売をやっていた人から譲り受けたその家も


新築することになる。 両親が言うにはみんながバブリーな頃だったらしい。


店には冷房が入り それは快適だったことを覚えている。


オープンセールで店は超満員・・・。


でもその少し後くらいだったか、コンビニエンスと言われるものが現れ始めた。


自分でもそれが珍しく自転車で30分もかけて買い物に行った記憶もある。


小さな頃からの「夢・家を継ぐこと」が自分のDNAにあるかのように


高校は公立の商業課程に進む。


仲間が就職する流れの中で、同じように就職試験を受ける。


意識はしていなかったが、飲料メーカーに入り地元の営業所配属となる。


さすがに自分の家に配達することはなかったが


いろいろな小売店からスーパーのカラクリまで見ることが出来た。


大きな酒屋の社長さんからも修行の誘いを受けた。


でもそれを断ってしまった。(ちょっと後悔)


親に心配をかけたがバイクが好きになり


バイクレースに夢中になった。


貯金もなく、当然遊ぶ金もなかったけど


バイクにだけは金をかけ、おまけに事故が原因で会社をやめることになる。


その頃には仕事を手伝うほど 家の商売は忙しくなかった。


新たに就職口を探すが、これがまた拘束時間が長く 成長期にある会社だった。


いまだにお世話になっている会社だ。


忙しく、バイクもやめ 嫁さんももらい、家のことは忘れ会社中心に生活が成り立った。


ある時、親父がガン宣告を受けた。


世界の王と同じ病気といわれ微妙な感じ。


普段の生活で意識しないように明るく振舞う。


店も閉店との決断をする。


あっさりと静かにその日はやってきた。


定休日でもないのにシャッターが閉まったまま。


様々な思いが込められた店は終わりを告げ


遠い昔描いた「夢」は終わってしまった。



あと数日で親父が入院する。




遅かった~。

昨日、片付けをしていて


  発見 目


春先にどうしても食べたくて


奥様にわがまま言って買ってもらった


カップラーメン 沖縄そば ラーメン


なつかしい !?


ってことは、


やっぱり 汗


賞味期限が切れていました 叫び



食べたいときにさっさと食べる


本日の格言でした。 しょぼん

営業の方向性に疑問あり

利益を残すために、コスト削減というよりは


輸送会社としては運賃up アップ ねらい。


それも最終的には仕方ないと思うけど


その運賃up方法に疑問あり はてなマーク


かなり安易に 現状の料金からプラスα なんて。


  それで良いの むっ


この運賃値上げ交渉には関わりたくないね。


  私は貝になる (どこかで聞いたような・・・)


お客様が理解して納得できるような方法があったでしょう。


でも、もう遅い カメ


ここは高みの見物と行きましょう お月様


 神風が吹くことを祈って 台風